第十一話:周亜父伝2


景帝三年、呉楚七国が政府からの圧力に耐えかね兵を挙げた。(詳細はこちら

景帝は周亜夫を太尉とし、竇嬰・欒布らを抜擢し呉楚の軍に当てることにした。

周亜夫は国家存亡の危機と思い景帝に言った。

周亜夫 「楚兵は戦に強く敏捷であり、これと直接交戦するのは困難です。

梁王(景帝の弟)に敵を引きつけてもらい、その間に我々は糧道を断ち切ります。

これで必ず勝ちます。」

景帝 「うむ。戦略は太尉に任せる。」


周亜夫は趙渉という者の献言を採りあげ、函谷関ではなく武関から出て洛陽へ到った。

函谷関付近を捜索させたところ、はたして呉の伏兵が発見された。

また周亜夫は洛陽にいた任侠の劇孟と面会し、呉楚が劇孟を味方に引き入れてないことを知ると、

呉楚は何もできないことがわかったと放言し、まるで敵国を手に入れたかの如く喜んだ。

周亜夫は兵をけい陽に集めた。



呉楚の叛乱軍は棘壁を破り、梁の国都すい陽を囲んで攻め立てた。

梁王劉武はすい陽を救うよう周亜夫に援軍を要請した。

周亜夫は全軍を率い、すい陽へは行かず東北にある昌邑へ入り守りを固めた。

梁王は使者を出し再び救援を願ったが、周亜夫は軍略を固守し救援を断った。

梁王は上書して景帝に救いを求め、景帝は周亜夫に詔を出し梁を救うように命じたが

周亜夫はこれも黙殺し昌邑を出なかった。


周亜夫は弓高侯韓頽当に軽騎兵を率いさせ、呉楚の後方を脅かし糧道を断った。

呉楚は食料が乏しくなり挑発し周亜夫を誘き出そうとしたが一切応じなかった。

しばらくすると城内の兵が罵りに耐えかね夜半に騒乱を起こしたが、

周亜夫は取り合わず帳から出なかった。しばらくすると騒ぎは自然と収まった。


呉兵が昌邑の東南に兵を動かしたが、これは陽動だった。

周亜夫はすぐに気付き、こっそり兵を西北へ備えた。

はたして昌邑の西北から呉兵が来たが、城を落とすことはできなかった。

呉楚の兵はついに飢えに耐えかね退却を始めた。

周亜夫はここぞとばかりに追撃し大勝した。

呉王劉ひは数千の兵と逃走し丹徒に籠り渡河を妨げようとしたが、

周亜夫は破竹の勢いで攻め寄せ呉兵をことごとく虜にした。

次いで呉王の首に千金の賞金をかけたところ、一ヵ月後にから呉王を殺したと報告があった。


およそ三ヶ月で呉楚七国の動乱は平定された。

ようやく諸将は周亜夫の計略の正しさに気付き感嘆した。

周亜夫は父子二代にわたって社稷の臣となった。

景帝は周亜夫を重んじた。


景帝七年に陶青が丞相を免じられ、周亜夫が丞相に任じられた。

次第に周亜夫は護国の功を誇り驕慢になった

丞相に任じられた年に、景帝は栗姫の産んだ太子栄を廃したが、

周亜夫はこれを強く諌めた為、景帝は周亜夫を嫌った。

また周亜夫は呉楚七国の乱の時、梁王の救援を断り続けたことにより遺恨が生まれていた。

梁王はの寵愛を笠に着て横暴であり、遂にはを暗殺するに到る人物である。

梁王は入朝する度に周亜夫の欠点を言い、景帝も心に感ずるところがあった。

また竇太后が景帝に皇后の兄王信を侯にするように迫ったが、

周亜夫が正論を持して反対した為断念した。

竇太后は周亜夫を憎み、息子の梁王と一緒になって周亜夫の悪口を言った。


景帝中三年、匈奴の王の徐盧・于軍・陸彊らが漢に降った。

匈奴の侵攻に業を煮やしていた景帝は大いに喜び、投降者が続くように徐盧らを侯に封じた。

周亜夫はまたもや正論を持して言った。

周亜夫 「彼らは自分の主に背き陛下に降ったのです。

陛下が彼らを侯にされるならば節義を守らない者を責めることができましょうか。」

景帝 「・・・・・。

丞相の意見に従うわけにはいかぬ。」

景帝は匈奴からの投降者をことごとく侯に封じた。

周亜夫は不満に思い、病と称して辞職を願い丞相を免じられた。後任は桃侯劉舎であった。

周亜夫は世の権力者全てを敵に回した。


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