景帝三年、呉王劉 ![]() ![]() ![]() 呉が破れ敗走すると、東甌は漢の懸賞に応じて呉を裏切り丹徒で劉 ![]() このため、東甌は誅されずにみな帰国することができた。 呉王劉 ![]() ![]() ![]() 建元三年、遂に ![]() 東甌は武帝に使者を出し危急を告げた。 武帝はまだ二十歳に満たず、太尉田 ![]() ![]() 越人が互いに攻撃しあうのは常であり、 頻繁に寝返りをうつのでわざわざ救いに行く必要はない。 また秦の頃から見棄てられた地であり中国には属していない、と意見した。 これに対し中大夫の厳助が、 秦は都・咸陽ですら棄てた、なにも越を棄てただけではない。 小国が助けを求めてきたのに、天子が助けなければ誰が救えばよいのか。 東甌を見棄ててしまえば、どうやって万国を心服させるのか。 と田 ![]() 武帝は、田 ![]() そして厳助を会稽郡に遣わし、東甌救出の為の兵を集めさせた。 会稽郡太守は厳助が虎符を持っていなかったので、徴兵を拒否した。 しかし厳助は会稽郡都尉を一人斬って天子の意向を諭し、徴兵を強行した。 そして海路より東甌救援に向かった。 この報を受けた ![]() 厳助は作戦を中止した。 東甌王は国を挙げて中国に移住することを請願したため、 武帝は東甌総ての民を移住させ淮水・江水の間に住まわせた。 東甌は無人の地となり、東海国は消滅した。 (後漢書集解によると、東甌王の都城があった章安縣東甌郷を分けて永寧縣した、とあるので、 「無人となった」というのは大袈裟な表現のようだ) |