武帝建元六年、越は南越(香港〜ベトナム北部を領有)を攻撃した。 南越は漢の外藩国として漢の武帝に状況を報告し、勝手に出兵をしなかった。 武帝は、これを機に東甌に続き越も片付けてしまおうと考え、 王を豫章郡から、韓安国を会稽郡から出撃させた。 これを見た淮南王劉安が上書して武帝を諫めた。 しかし武帝は出兵を強行した。 この上書には越の風土や風習が載っており、大変貴重であるのでここに挙げておく。 越王郢は、漢軍が到着する前に兵を出し要害を固めた。 これを見た王弟の餘善は「漢に敵うわけがない」と一族と謀議し、 兄を殺して漢皇帝に謝罪し、それで許されないなら力戦し海中の島に逃れる計画を立てた。 一族の者も賛成したため、鉾で王を突き殺し首を王のもとへ送り届けた。 武帝は報告を受けて、王・韓安国の軍を止めさせた。 そして、「無諸(劉邦を助けた初代越王)の孫の君・丑だけは謀反に加わらなかった。」とし、 丑を越の王にとりたてて越の先祖をまつる祭祀を継がせた。 一方、兄を殺しても王になれなかった餘善は、 多くの民を帰属させ実力を持っていた為、漢には内緒で勝手に王位についた。 王丑はこれを制することができなかった。 武帝はこれを聞いたが、餘善のために再び出兵することもないと考え、 王丑と同格の東越王にとりたててやり、懐柔した。 越・東甌・越系図 |