第七話:子孫たち


文帝十二年、民間で次のような歌が流行った。

「一尺布、尚可縫。
たった一尺の布でも縫うことができる。

一斗粟、尚可舂。
たった一斗の粟でもつくことができる。

兄弟二人、不相容。」
それなのに兄弟二人が許しあえぬとは。

文帝はこれを聞いて、言った。

「昔、尭・舜は肉親の親を追放し、周公は管・蔡を殺したが、天下は尭・舜を聖人としている。

私情を挟まず、公事をそこなわなかったからである。

天下の者どもは、わしが淮南王の領地を貪り奪おうとしたとでも思っているのだろうか。」

そこで城陽王劉喜(斉王劉肥孫)を淮南王とし、劉長を「れい王」と諡し諸侯の格式どおりに陵を置いた。


文帝十六年、劉喜を元の城陽王に戻し、劉長の三人の子供を王に取り立てた。

劉安を淮南王に、劉勃は衡山王に、劉賜は廬江王にし、淮南の領地を三分した。

もう一人の子であった劉良はすでに物故しており後嗣がなかった。


景帝三年、呉楚七国の乱が起きた。

劉勃と劉賜は呉楚に同調しなかったが、劉安は謀反に加わろうとした。

しかし丞相の張釈之が軍権を握って出兵させず、劉安は謀反人にならずにすんだ。

しかし劉安は父が無残な死に方をしたのを恨んでおり、いつか謀反を起こそうと考えていた。

武帝の代になり、淮南王劉安は謀反を起こそうとしたが事前に漏れ、自殺した。

淮南は九江郡となった。


廬江王劉賜も劉安に同調して謀反を起こそうとした。

しかし武帝はこれを赦した。

数年後、身内で争い、互いに告発しあい一族は誅殺され劉賜は自殺した。

廬江は衡山郡となった。


劉長とその子らは、父と子の二度に渡って国を失い、非業の死を遂げた。


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