第五話:竇太后君臨


竇姫はその後、重病に罹り失明してしまった。

そのためか、精神的支柱を求めて黄帝・老子(いわゆる黄老思想)の言葉を愛好した。

いや、自分の運命を受け入れてきた彼女は、

万事あるがままに受け入れることを知っていたのかもしれない。

『老子』に次の言葉がある。「曲則全。枉則直。窪則盈。敝則新。」

誤訳を恐れずに意訳するならば、

「屈んでいれば人生をまっとうできる。ねじれていれば真っ直ぐになることができる。

くぼんでいれば満たされる。ぼろぼろであれば新しくなれる。」

といったところであろう。(老子の言葉について詳しく知りたい方は錬平館へどうぞ♪)

彼女はこの言葉に大いに励まされたであろう。ぼろぼろであれば新しくなれるのだ。



文帝は中年になり失明した竇姫を愛さず、若い慎夫人や尹姫を寵愛した。

しかしどちらも子が生まれず、後継者は竇姫の子・劉啓のままであった。

やがて夫・文帝が死に、景帝劉啓が立った。竇姫は太后となった。

竇姫は黄老を信じていたため、景帝を始め太子や一族の者は

みな老子を読み、尊重せざるをえなかった。



彼女は一家離散の悲しみを知った為か、一族に対する愛が盲目的であった。

彼女は亡兄竇長君の子・竇彭祖を南皮侯に任じ、最愛の弟竇広国を章武侯に任じた。

また従兄弟の子であった竇嬰は軍功を立て、魏其侯となった。

竇皇后は度々竇嬰を丞相にするよう景帝に迫ったという。


当時、しつ都が法を厳酷に執行し、皇族に恐れられていた。

彼は「蒼鷹(猛禽のこと)」というあだ名をつけられていた。

竇太后は始め彼を尊重したが、結局彼は竇太后の孫にあたる臨江王を

厳しく取り締まり自殺させた為に、彼は身に覚えの無い罪を被せられ誅殺された。

しつ都は酷薄な人柄ではあったが、清廉であった。竇太后は悪名を残した。


また、竇太后の子で景帝の弟である梁王劉武は母の寵愛を傘に着て傲慢であった。

彼は兄である景帝に嫌われ、都に住むことを許されず寂しく死んでいった。

竇太后は末子の死を聞くと慟哭し、「帝があの子を殺したのだ。」と泣き止まなかった。

景帝や群臣らは恐懼し、劉武の五人の子を王に立て、女の子五人にも領地を与えた。

これを聞いて竇太后はやっと泣き止んだと言う。



景帝が亡くなり、竇太后から見て孫にあたる劉徹が即位した。後に言う武帝である。

竇太后、いや、竇婆さんは益々政治に口出しするようになった。

武帝は黄老の学を嫌っていたので、儒学の士であった趙綰や王臧や田ふんを取り立て

竇婆さんの実権を削ごうとした。

しかし、竇ばあさんの権力は未だ絶大であった。趙綰と王臧は弾劾され自殺し、

ふんは免職となった。一族であった竇嬰も免職となったほどである。

ここまでやってしまうと、もう管理人には彼女を弁護する言葉は無い…。


婆さんは息子に遅れること六年、紀元前135年にこの世を去った。

遺体は文帝陵に合葬された。婆さんの遺産はすべて娘の嫖に譲られた。


婆さんの死は、漢の緊縮政策の終焉を意味した。

武帝は祖母が死ぬと匈奴遠征を始め、

高祖・恵帝・呂后・文帝・景帝の貯蓄を使い果たした。



竇一族のその後に触れておこう。

竇太后の最弟であった竇広国(字は少君)は11000戸の章武侯となり、

景帝七年、姉より先に死んだ。おくりなは景侯であった。

子の竇定が継ぎ、18年して死に共侯とおくりなされた。

子の竇常生が継いだが、罪を犯して章武侯は断絶した。


竇太后の兄竇建(字は長君)は早くに亡くなっていたため、

子の竇彭祖が南皮侯に封じられた。11年して死に、子の竇良が継いだ。

竇良は5年して死に、夷侯とおくりなされた。

子の竇桑林があとを継ぎ、18年して罪を犯して南皮侯は断絶した。

しかし、桑林という名は、竇皇后と竇広国の逸話に因んだものであろうか…。


竇太后の従兄弟の子であった竇嬰は呉楚七国の乱で武功を立て、魏其侯となった。

しかし23年後、田ふんと争い、罪を被せられて棄市(さらし首)された。


また、竇太后にはもう一人弟がいた。竇甫である。

彼は長楽衛尉(長楽宮の護衛隊長)に任命されたが、ほとんど事跡が伝わっていない。

酒癖の悪い灌夫と酒を飲み、言い争いになって殴られたことのみ伝わる。



竇家系図
竇家系図



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