掲示板で竇家その後が盛り上がったので、こちらに手直しして移植します。 『後漢書』を見ると、竇広国の子孫がいます。さっそく追ってみましょう。 竇融、字は周公といい、扶風平陵の人である。七世の祖、竇広国は前漢文帝皇后の弟であった。 竇融の高祖父は宣帝の時代に二千石の吏となり、常山に移った。 竇融は早くに父母をなくした。王莽の居攝年間、強弩将軍の司馬となり、 東方に行き義を撃ち、帰還して槐里を攻め、その軍功をもって建武男に封じられた。 妹は大司空の王邑の妻となった。 竇融は長安に家があり、高官たちの家に出入し、豪傑たちとつながり任侠で名をあげた。 王莽の末年、青州・徐州で赤眉の反乱が起きため、太師の王匡がこれを討伐することとなった。 王匡は竇融に従軍してくれるよう頼み、融は王匡と共に東征した。 後に王莽が敗れると、長安を占領した更始帝に仕え、鉅鹿太守となった。 しかしこの政権の不安定さを見て、一族が代々縁のあった河西(朔方・金城・武威・張掖・酒泉・敦煌など) に移った。そこで羌や官吏を手なずけ、更始帝が敗れると遂に河西で独立し、 河西を富ませ、兵馬を修め、匈奴を撃退した。 その善政を慕って安定・北地・上郡から人が流入し、さらに河西は栄えた。 竇融は遥かに光武帝劉秀が即位したことを聞き、隗囂の誘いを蹴って光武帝に帰属した。 光武帝は河西が富み独立国家の様相を呈しているとの情報があったのでこの帰属を非常に喜び 竇融を涼州牧に任命した。 隗囂が反乱を起こすと、竇融は光武帝に属す意志を明らかにし、光武帝はこれを喜び、 竇融に『史記』五宗世家・外戚世家・魏其侯列伝を下賜し、竇家の代々の忠誠を讃えた。 ついに光武帝は竇融を引見し、共に軍を進めて隗囂を叩き潰した。 竇融は洛陽に入り、冀州牧に任命され、十余日後には大司空に遷った。 後、免ぜられたが、衛尉・将作大匠を兼任した。 さらに弟竇友を城門校尉に任命し、宮中の軍権を竇兄弟に握らせた。 竇融は七十八歳の時、亡くなった。 霊帝の時、宦官皆殺しに失敗し、党錮の禍で死んだ竇武で竇家は断絶するかに見えた。 しかし、当時二歳だった彼の孫竇輔だけは、胡騰に守られて洛陽を脱出。 はるか南方零陵の地まで落ちのび、死んだと偽った。 竇輔は胡騰の子として育てられ、長じて桂陽の孝廉に推された。 荊州牧・劉表のはからいで、胡輔と名乗っていた彼は竇姓に戻り、そのまま侍従になった。 劉表が死に荊州が曹操の手に落ちると、竇輔はに移された。結局丞相府に招聘され曹操に臣従した。 後、馬超との戦闘中、流れ矢に当たって死んだ。 誤訳があったらゴメンナサイ。素人なんで(^-^;; |