生き残った項羽一族
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項籍、字は羽。一般には「項羽」「覇王」の名で親しまれている英雄は、楚の貴族の末裔だった。
項羽の家は、楚では格式の高いほうの家柄で、
はるか祖先が武功を立てて、項の地に領土を賜ったのが項氏の始まりだという。
その家系は項燕までは明らかでないが、項燕は名将の誉れ高い人物である。
項燕は戦国最末期、膨張し続ける秦の勢いを一度は跳ね返した楚の英雄であった。
しかし、秦が国家の威信をかけて全兵力を傾けて攻め込んでくると、項燕も歯が立たず戦死した。
楚の人々は項燕の死を認めず、どこかに雌伏していると信じ続けた。
陳勝と呉広が中国最初の農民反乱を起こしたとき、項燕の名を騙ったことは有名である。
項燕の息子項梁は会稽で挙兵し、陳勝・呉広に呼応した。
そして陳勝らが敗死した後、正式に反乱軍の跡を継いだが、項梁も秦軍に負けて死んだ。
項梁の甥項羽が叔父の跡を継いで反乱軍の首領となり、超人的な武勇で秦軍を壊滅させ、
一度は天下を統一した。
が、各地で反乱が相次ぎ人心を失い、項羽は次第に追い詰められ遂に劉邦に負けて死んだ。
劉邦は敵には寛大だったため、項羽の一族は逮捕すらされなかった。
項一族で列侯の身分になった者は確認できる限りでは三人もいる。
では、『史記』に登場する項一族を追ってみよう。
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項梁 |
詳しくは「項梁伝」を参照。
斜陽の楚を支えた悲劇の将軍項燕の子。
会稽で挙兵。陳勝呉広の跡を継ぎ楚を建国するも、秦の章邯に負けて死ぬ。
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項嬰 |
項羽の親族。
項羽が張耳を常山王に任命したときに付けたお目付け役だと思われる。
張耳が反旗を翻したときに殺され、その首は劉邦に投降するときの手土産となる。
しかし原文解釈に諸説あり、項嬰は人名ではないとする説もある。
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項悍 |
項羽の親族。
項羽の武将。項羽が負け、会稽へ向かって敗走中に
済陽で漢軍の 歙に打ち破られた人。その後の生死不明。
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項冠 |
項羽の親族。
項羽の将。項羽がまだ強かった頃、漢軍の傅寛に打ち負かされ兵を失っている。
後、項羽が会稽へ向かって敗走しているときに、
魯で漢軍の灌嬰・ 歙らに敗れる。その後の生死不明。
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項声 |
項羽の親族。
淮南王黥布が漢の使者随何に説得されて項羽を裏切ったとき、
黥布討伐軍を竜且とともに率いた人。黥布軍を壊滅させ、黥布の家族を皆殺しにした。
後、北方で強大な勢力を築き楚を圧迫していた韓信を討伐する為に
薛公らと兵を率いるも、灌嬰に敗北。薛公は戦死。
その後の生死不明。
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項荘 |
項羽の従弟にあたる。
有名な「鴻門の会」の時、劉邦刺殺を躊躇う項羽を見た范増に、
「劉邦を剣舞にかこつけて刺せ。」と言いつけられた人。
項伯の邪魔により暗殺は失敗し、その後の生死不明。
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項佗 |
項羽の親族。
項羽が治める西楚の柱国(総理)だった人。
項羽が出征している間、都の彭城で留守をしていたらしい。
灌嬰に彭城を攻められ、捕虜となる。
以後、生死不明。
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以上が、行方不明者か死亡者か庶民となった項氏である。
そして次に挙げる三人が、漢帝国の列侯になった項一族である。
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平皋侯
項它 |
項一族だということ以外、何も判らない。
高祖六年(紀元前201年。この年、韓王信が匈奴に投降。功臣に与える封地を決めた年)、
郡の長の身分で劉邦に初めて仕えて功を立てたという。
劉姓を与えられ、580戸の平皋侯に封ぜられる。
恵帝五年に死に、煬侯とおくりなされる。
子の遠は景帝元年に死に、共侯とおくりなされた。
子の光は武帝建元元年に死に、節侯とおくりなされた。
子の勝が継いだが、28年して罪を得て国を除かれた。
しかし宣帝元康四年、項它の七代目にあたる勝之を
取り立てて家名を継がせた。
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射陽侯
項伯 |
項梁の兄弟、項羽の伯父にあたる。項纏、字は伯だといわれる。
若い頃、刃傷沙汰をおこして秦から追われる身となる。
しかし、それが縁で張良と友人となる。
甥の項羽のもとに馳せ参じ、左尹(官名)となる。
鴻門の会の前夜に単騎で旧友張良のもとを訪ね、危険な情勢をつぶさに伝え
二人で逃亡しようと勧める。が、張良は劉邦に事態を伝え、
渡りに船と劉邦は項伯と婚姻関係を結ぶ約束を交わし義兄弟となった。
帰ってから項伯は項羽に劉邦の事情を説明し、疑念はいささか弱まった。
鴻門の会の当日、項荘が剣舞にかこつけて劉邦を殺そうとしたのに気付き、
自らも合わせて剣舞を舞い身を挺して劉邦を庇った。
後、項羽が負けると降伏し劉姓を与えられ、以前の恩をもって射陽侯に封ぜられた。
恵帝三年に纏は死亡し子の が跡を継いだが、
高后二年に罪を得て国を除かれた。
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桃侯
項襄 |
高祖二年(項羽が懐王を殺し、彭城で劉邦が大敗北した年)に
劉邦の客として付き従う。
項羽が滅んだ後、大謁者(官名)のときに淮南王黥布の反乱鎮圧に尽力し、
劉姓を与えられ1000戸の桃侯に封ぜられた。
文帝十年、襄は死に安侯とおくりなされた。
子の舎が継いだ。劉舎は景帝の時代に丞相にまで登った。
舎は武帝建元二年に死に、懿侯とおくりなされた。
子の由が継ぎ、武帝元朔二年死に詞とおくりなされた。
子の自爲が継いだが、武帝元鼎五年罪を得て国を除かれた。
しかし、宣帝元康四年に襄の六代目にあたる益寿が
家名再興を許された。
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【まとめ】
管理人は、項羽の一族から漢の丞相が出ているとは今回の調査をするまでまったく知りませんでした。驚いています。
そして項伯の子孫たち、そのあとどうなったのだろうか。とても気になる・・・。
そういえば、『三国志』にもチラッと項さんがでてましたね。項峻・・・?
もし、項氏その後で何か知っていることがありましたら、掲示板の方へ書き込んでください。
またいいネタがあったら、まとめてみます。
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