附記:子孫たち


韓王信が匈奴に降伏した時、自分の家族も連れていった。

彼の妻は既に懐妊していた。しかも臨月が近く、逃避行の長旅は辛かったであろう。

匈奴領内の頽当城で月が満ち、子が産まれた。

地名にちなんで、韓頽当と命名された。


その後、韓王信は敗死した。韓頽当は父の顔を覚えていたのだろうか・・・。


韓頽当は匈奴で成人し、妻を娶り、子どもが産まれた。

子の名前は韓嬰と命名した。


韓頽当は母や家臣達から、

「あなたの父上は、漢に帰参したかったのにそれが叶わず、無念の思いを抱いて死んでいったのです」

と、幼い頃から繰り返し聞かされて育った。

韓頽当は父の思いを果たすべく、紀元前166年に一族・部下を引き連れ漢に降伏した。

漢では、文帝の時代になっていた。


実は、文帝は帝位につくまえは代王の位にあった。

代は匈奴に接しており、文帝は代王時代に韓頽当と連絡があったであろう。

韓頽当も文帝だからこそ安心して投降できたのである。


文帝は韓王信の遺族に同情し、

韓頽当を弓高侯に、子の韓嬰を襄城侯にとりたてた。


その後、漢で皇族の内乱が起きた。有名な「呉楚七国の乱」である。

韓頽当は将軍に抜擢され大活躍をし、一躍有名人になった。


その後、韓頽当は死に、

子、孫、と弓高侯の侯位を伝えたが、孫に子が無く取り潰された。


韓嬰の襄城侯の侯位は、孫が不敬罪で侯位を剥奪され消えた。


韓頽当の孫に、韓嫣という者がいた。

彼は武帝に仕え、容姿優れていたため武帝の夜のお供をした。

しかし皇帝の寵愛を笠に着た傲慢な振舞いが多く、同僚に嫌われボコボコに殴られたこともあった。

また、皇族をないがしろにした振舞いも多かった。

結局、罪をでっち上げられ死刑になった。自業自得と言えよう。

韓嫣の家には一生使っても尽きないほどの財産があったという。


韓嫣の弟に韓説という者がいた。

兄が皇帝の愛人だったので、韓説も侯位をもらえた。

韓説は案道侯のまま死し、子の韓興が侯位を継いだ。

しかし、法に触れ死刑になった。


その後、韓興の弟の韓増が竜額侯にとりたてられ、

韓家は大名として名跡が続いたのであった。



韓家その後の詳細は、雑記内にある戦国韓王家の行方へどうぞ。


HOMEへ戻る