しばらくして景帝は周亜夫を召し、食膳を下賜した。 食膳には大きい肉の塊が置かれており、小さく切った肉はなかった。 また箸も無かった。 周亜夫は心中穏やかならず、顔にも不平の色が出た。 振り返って係りの者に箸を持ってくるように命じた。 景帝はこれを見て笑いながら言った。 |
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景帝 | 「條侯の気持ちに何か足りないものがあるのではないか?」 |
周亜夫 | 「・・・。臣の考えが足らず申し訳ありません。」 |
景帝 | 「・・・立て。」 |
周亜夫は小走りに退出した。 景帝はその様子を眺めて言った。 「かの者の面は不平で満ちている。幼君(後の武帝のことか)の臣ではあるまい。」 その後、周亜夫の息子が父の為に副葬品の鎧・盾五百組を宮中の役人からこっそり買った。 この副葬品は皇帝の副葬品であった。 さらに人夫を雇い父の墓を作らせたが、こき使った上に賃金を与えなかった。 人夫は怒り、皇帝の副葬品をこっそり買ったことを密告した。 (周亜夫の子だけでなく諸侯も同じことをしていたのかもしれぬ。中山靖王劉勝の墓からは豪華な副葬品が出ている。) 連座で周亜夫も捕らえられた。 周亜夫は自殺しようとしたが、無罪を信じて妻が止めた。 景帝は周亜夫の身柄を直接廷尉に下さず、担当の役人に預けた。 役人が何を聞いても周亜夫は何も答えなかった。 景帝は怒り、周亜夫の身柄を廷尉に移した。 |
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廷尉 | 「侯が謀反しようとした訳をお聞かせ願いたい。」 |
周亜夫 | 「臣の買った武具は葬式用のものだ。なぜ謀反になるのだ!」 |
廷尉 | 「あなたは、たとえ地上で謀反しなくても 地下(死後。墓の中の意)で叛こうと思っているのだ。」 |
周亜夫 | 「・・・・・!!」 |
地下で叛くなど聞いたことが無い。周亜夫は景帝の意図を感じ取ったに違いない。 自殺できなかったことを悔いた周亜夫は絶食し、五日後に血を吐いて死んだ。 許負の占いの通り、周亜夫は餓死した。景帝中三年(BC147)のことだという。 景帝中五年、周亜夫が反対した皇后の兄王信が侯に封じられ蓋侯となった・・・ 景帝の末期に丞相になった衛綰を見てもわかるとおり、 景帝中期から武帝初期にかけては、後嗣後宮問題や匈奴対策が表面化し難しい時期であった。 周亜夫は護国の功を誇り、皇帝に直諌し不平を表した。 高祖劉邦であれば受け入れたかもしれないが、すでに時代が違ったのかもしれない・・・ ![]() さすがの景帝も社稷の臣周勃の後嗣を絶やす訳にはいかず、 景帝後元年(BC143)、周勃の子の堅を封じて平曲侯とし周勃の後を継がせた。 武帝元朔五年(BC124)、建徳が侯を継ぎ、官は太子太傅に到った。 元鼎五年(BC112)に酎金の法に触れ、他の列侯と同様に封国を没収された。 宣帝元康四年(BC62)功臣の子孫の家名再興を許し、周勃の曾孫の廣漢に家名を継がせた。 この時、宣帝は功臣の直系の子孫に黄金二十斤を与えているので 恐らく周廣漢も下賜されたであろう。 平帝の元始二年(AD2)、周勃の玄孫の子にあたる恭を絳侯に封じ千戸を食邑として与えた。 ![]() |