第十二話:周亜父伝3


しばらくして景帝は周亜夫を召し、食膳を下賜した。

食膳には大きい肉の塊が置かれており、小さく切った肉はなかった。

また箸も無かった。

周亜夫は心中穏やかならず、顔にも不平の色が出た。

振り返って係りの者に箸を持ってくるように命じた。

景帝はこれを見て笑いながら言った。

景帝 「條侯の気持ちに何か足りないものがあるのではないか?」

周亜夫 「・・・。臣の考えが足らず申し訳ありません。」

景帝 「・・・立て。」

周亜夫は小走りに退出した。

景帝はその様子を眺めて言った。

「かの者の面は不平で満ちている。幼君(後の武帝のことか)の臣ではあるまい。」


その後、周亜夫の息子が父の為に副葬品の鎧・盾五百組を宮中の役人からこっそり買った。

この副葬品は皇帝の副葬品であった。

さらに人夫を雇い父の墓を作らせたが、こき使った上に賃金を与えなかった。

人夫は怒り、皇帝の副葬品をこっそり買ったことを密告した。
(周亜夫の子だけでなく諸侯も同じことをしていたのかもしれぬ。中山靖王劉勝の墓からは豪華な副葬品が出ている。)

連座で周亜夫も捕らえられた。

周亜夫は自殺しようとしたが、無罪を信じて妻が止めた。

景帝は周亜夫の身柄を直接廷尉に下さず、担当の役人に預けた。

役人が何を聞いても周亜夫は何も答えなかった。

景帝は怒り、周亜夫の身柄を廷尉に移した。

廷尉 「侯が謀反しようとした訳をお聞かせ願いたい。」

周亜夫 「臣の買った武具は葬式用のものだ。なぜ謀反になるのだ!」

廷尉 「あなたは、たとえ地上で謀反しなくても

地下(死後。墓の中の意)で叛こうと思っているのだ。」

周亜夫 「・・・・・!!」

地下で叛くなど聞いたことが無い。周亜夫は景帝の意図を感じ取ったに違いない。

自殺できなかったことを悔いた周亜夫は絶食し、五日後に血を吐いて死んだ。

許負の占いの通り、周亜夫は餓死した。景帝中三年(BC147)のことだという。

景帝中五年、周亜夫が反対した皇后の兄王信が侯に封じられ蓋侯となった・・・


景帝の末期に丞相になった衛綰を見てもわかるとおり、

景帝中期から武帝初期にかけては、後嗣後宮問題や匈奴対策が表面化し難しい時期であった。

周亜夫は護国の功を誇り、皇帝に直諌し不平を表した。

高祖劉邦であれば受け入れたかもしれないが、すでに時代が違ったのかもしれない・・・





さすがの景帝も社稷の臣周勃の後嗣を絶やす訳にはいかず、

景帝後元年(BC143)、周勃の子のを封じて平曲侯とし周勃の後を継がせた。

武帝元朔五年(BC124)建徳が侯を継ぎ、官は太子太傅に到った。

元鼎五年(BC112)に酎金の法に触れ、他の列侯と同様に封国を没収された。

宣帝元康四年(BC62)功臣の子孫の家名再興を許し、周勃の曾孫の廣漢に家名を継がせた。

この時、宣帝は功臣の直系の子孫に黄金二十斤を与えているので

恐らく周廣漢も下賜されたであろう。

平帝の元始二年(AD2)、周勃の玄孫の子にあたるを絳侯に封じ千戸を食邑として与えた。






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