第五話:丞相


景帝の後元年八月、衛綰はついに丞相に任命され位人臣を極めた。

しかしその前途は多難であった。

二年の春、匈奴が雁門郡に押し寄せ太守の馮敬は戦死。

また春の農作物が不作、秋の大旱魃があった。

三年正月、前年の不作を受けて景帝が農桑・種植を民に勧めた。

同年、景帝が崩御し武帝が即位した。


武帝建元元年十月、武帝は賢良方正・直言極諫の士を推挙させたが、

衛綰が上奏して言った。

「推挙された賢良達は、申不害・商鞅・韓非・蘇秦・張儀らの学問を習い

国政を乱す惧れのある者達ですから、一切お取り上げになりませぬように。」

若い武帝が不快に思ったのは間違いない。

しかし皇太后の竇氏が睨みをきかせ黄老の説を政治に持ち込んでいた為、

対抗できる訳もなく衛綰の上奏を裁可した

衛綰にとっても、竇太后が好む黄老の説を否定するわけにもいかなかったのであろう。


同年六月(当時は十月が年始であった)、武帝は

「丞相は、先帝が病んだとき無実の罪に坐した者が多かったのに明らかにできず、

責務に堪えることができなかった。」

として衛綰を罷免した。

同時に黄老を好む御史大夫直不疑も罷免されている。

後任の丞相には竇嬰が任じられた。


元光五年、建陵侯衛綰は生涯を閉じた。

哀侯と諡された。

丞相を免じられてから九年、その間に竇太后は死に、

武帝は自由に中国を動かし、癌であった匈奴を撃ち、南に越を撃った。



司馬遷や班固が言うように、確かに衛綰は何ら現実を是正し変革できなかった。

しかし時代は文帝・景帝と続く安定期であり二代目丞相曹参から黄老を好んでいた。

またちょうど時代の転換期でもあり、専制皇帝の意思を巧みに汲み取らなければ

政界を生きることはできなかった。

私は全ての咎が衛綰にあったとは思わない。


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