第六話:左袒


恵帝六年、丞相の曹参が死んだ。

劉邦の遺言通り、右丞相に王陵、左丞相に陳平を、太尉に周勃を任命した。

この時、恵帝は母の横暴な振る舞いに心を痛め政務をみなくなっていた。

しかし、右丞相王陵は劉邦が見込んだ硬骨直言の漢であり、

恵帝不在の朝廷でも呂后の専横を認めなかった。

しかし二年後、恵帝が亡くなった。

呂后は息子の葬儀もそこそこに、諸大臣に呂氏を王に立てるよう提案した。

当然、王陵だけは反対し右丞相を辞めさせられた。

陳平を右丞相に移し、左丞相に審食其を据えた。

審食其は劉邦蜂起の頃から従った者で、呂后に常に侍っていた人物である。

こうして呂氏一族はみな王や侯に任じられ、

呂后七年には梁王呂産を相国とし北軍を統括、趙王呂禄を上将軍として南軍を統括させ、

すべての軍権を握らせた。

右丞相陳平は政務を見ることもできず、太尉周勃は軍門をくぐることもできなかった。


陳平と周勃はそれほど仲が良くなかったらしく(以前のことがあったからか?)、

お互いに考えを交換することなく独自に呂氏専横を悩んでいたらしい。

そんなとき陸賈が陳平を説き、陳平と周勃は密かに手を握りあった。


呂后八年七月、呂后が死んだ。

呂産・呂禄は後ろ盾を失い、諸侯に誅殺されることを恐れ兵を率いて反乱を起こそうとした。

朱虚侯劉章がこれを知り、兄の斉王劉襄に知らせた。

斉王は呂氏誅滅の為に兵を発した。

呂禄・呂産らは何を血迷ったか、大将軍灌嬰を大将にし斉兵に当たらせた。

当然灌嬰は斉王と連合して兵を留め、陳平・周勃が都で内応するのを待った。


周勃は陳平と謀り南北両軍の軍権を奪回する策を練り、

れき(曲周侯商の子、食其の甥)が呂禄と友人であることを利用し、呂禄を騙させた。

れき寄はやすやすと呂禄を欺き、事態を恐れた呂禄は兵権を返上し領国へ逃げようとした。

報告を受けた周勃はすぐさま北軍へ入り、軍中に命令して言った。

「呂氏に味方する者は右肩を脱げ!劉氏に味方する者は左肩を脱げ!」

軍はみな左肩を脱ぎ、周勃に従った。(「左袒」の故事はここから来ている。)


北軍は周勃が掌握したが、まだ呂産の南軍が残っている。

陳平は周勃の補佐に劉章をやり、

御史大夫曹ちゅつ(曹参の子)に命じ呂産を宮中に入れさせぬようにした。

呂産は宮中に入れず門の前をうろついていた。

周勃は劉章に兵を授け、劉章は呂産を討ち厠の中で呂産を見つけ殺し、

長楽衛尉呂更始をも斬り北軍へ帰り周勃へ報告した。

こうして南軍も周勃が掌握した。


周勃は両軍を制圧した上で呂禄を捕らえ斬った。

かい(この時は既に他界)の妻であった呂しゅも捕らえられムチで打ち殺された。

他の呂氏も全て斬られた。


周勃は劉邦の予言通り、劉氏の天下を救う社稷の臣であった。


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