第十一話:社稷の臣



紀元前180年、呂后が死んだ。

劉一族や諸侯は呂氏を誅殺するチャンスだと思いつつも、

呂禄・呂産が軍権を握っているので恐れて行動を起こそうとする者はいなかった。

陳平も自宅に籠り、あれこれと思いめぐらせていたが有効な策は思いつかなかった。

そんなとき、呂后専制に嫌気がさして引退していた陸賈がヒョッコリと陳平宅を訪れた。


陸賈は見舞いと称して案内も待たずにズカズカと家に入り込み、陳平の前に座った。

ちょうど陳平は考え事をしており、陸賈に気が付かなかった。

陸賈 「陳丞相。何を思い悩んでいるのですかな。」

陳平 「おお、陸先生ではないですか。

今、私が何を考えていたか当ててみられよ。陸先生ならお分かりだろう。」

陸賈 「はは。陳丞相の地位は大臣の最高位で、三万戸の大名でもあります。

そして財産も山ほどありますな。これ以上望むものは無いでしょう。

それなのにまだ心配することがおありならば、それは呂氏と劉氏のことでしょうな。」

陳平 「おお、その通りです。何かよい策はないだろうか・・・」

陸賈 「天下安泰な時は人々の目は丞相に注がれ、

天下危急時は人々の目は将軍に注がれるという。

それならば将軍と丞相が手を結べば国家の権力は二人に集中し、諸侯もつき従います。

これならば有効な策も立てらますぞ。

太尉の絳侯周勃将軍とあなたが親密になり連携すれば事は成功するでしょうな。」

陳平 「おお!なるほど。」



陳平は陸賈の計略に従い、周勃に500金の贈り物をし酒宴を開いた。

周勃も陳平を招いて酒宴を開いた。

こうして陳平・陸賈・周勃は密かに策をめぐらし、

曲周侯商・奇親子、潁陰侯灌嬰、朱虚侯劉章、斉王劉襄らを味方に引き入れ呂氏一族を誅殺した。

呂后の妹呂は鞭で打ち殺され、子の樊伉も殺された。

そして代王劉恒を招いて皇帝に立てた。これが名君の誉れ高い文帝である。

こうして陳平は万世に名を残す社稷の臣となったのである。



その後、陳平は仮病をつかって右丞相の位を周勃に譲ろうとした。魏無知の時と同じやり方だ・・・

文帝は陳平の病気を怪しく思ったが、

高祖劉邦がまだ漢王だったころからずっと付き従って功績を立ててきた周勃を尊んで右丞相とし、

陳平を降格させて左丞相とした。


あるとき、文帝が周勃に国政について細かい質問した。

文帝 「右丞相周勃、一年間で裁判の判決はどれだけ出るのか教えよ。」

周勃 「・・・存じませぬ。(汗)」

文帝 「では一年間で貨幣・穀物の収支はどれくらいになるのか。」

周勃 「・・・・・・存じませぬ・・・。(汗汗汗)」

文帝 「では左丞相陳平に聞く。裁判の判決数、貨幣・穀物の収支を知っているか?」

陳平 「それは係りの者にお聞きください。」

文帝 「係り?それは誰だ?」

陳平 「もし裁判について知りたいなら廷尉に、

金銭穀物について知りたいなら治粟内史(後に大司農と改名される)に問いただしてください。」

文帝 「なるほど。それぞれに係りがいるのだな。

では左丞相たるお前は、何の係りなのだ?」

陳平 「宰相とは、上は天子をお助けし陰陽の二気を調和して四季の移り変わりに順応させ、

下は万物が良く育つように配慮します。

外には四方の夷狄や諸侯らを鎮撫し、内には人民を懐け、

諸大臣がそれぞれの職務を果たせるように支えるのが宰相の役目と考えております。」

文帝 「おお!!よくぞ申した!!お前に国政を任せれば間違いはないだろう。」

周勃 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(恥)」


右丞相周勃は散々に恥をかいて退出すると、陳平を責めた。

周勃 「君はどうして答え方を教えてくれなかったのだ。」

陳平 「絳侯よ、あなたは我が国で一番高い位にありながら、その任務を知らぬのか?

もし陛下が『長安にはどれだけ盗賊がいる。』とお尋ねになったらどうするんだい?

君は自分で盗賊の数を答えるつもりかい?ははは。」

周勃 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(ムカムカ)

この問答で周勃は、「陳平と比べると自分は遥かに劣っている」ことを悟った。

また食客が周勃に進言した。

「あなたは高祖に従って項羽を滅ぼし、のち呂氏を滅ぼし威光は天下に轟いています。

しかも天子さまに寵愛されています。しかし、この状態が長く続くとは思えません。

あなたは淮陰侯韓信が同僚だったはず。彼の轍を踏むのですか?

今にも災いが絳侯さまの身に降りかかりますぞ。」

周勃は黥布・韓信・韓王信・盧綰らの悲惨な末路を思い出し、恐怖に駆られた。

そして仮病をつかい右丞相を辞職したいと願い出、受理された。


陳平は丞相の職務を独り占めした。



周勃が右丞相を辞めてから一年余が過ぎた頃、陳平は波乱多き生涯を終えた。

紀元前178年だった。

文帝を補佐して二年、おくりなは献侯であった。


彼は老年に入ってから、こう言っていたという。

「わしは今まで陰謀多く生きてきた。これは道家が禁じていることだ。

わしの陰謀で人知れず災禍に遭った人は数え切れぬだろう。

わしの子孫が一度爵位を失ったら、もう二度と再興できまい。」



管理人はこの箇所を読むと、陳平の孤独と自己嫌悪を感じる。

彼は天下に自分の思う政道を布きたいと思うあまり、多数の人を殺す策を立てた。

時にはか弱い婦女の命をも巻き込んだ。

陳平は老境に入り、自分がいままでやってきたことを振り返り、

才能を発揮しきった充足感と共に、自己嫌悪に襲われていたのではないだろうか。

自分のやってきたことは一体なんだったのか、と。



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