第八話:投獄


文帝二年十月、丞相陳平が死んだ。文帝は後任には周勃を選んだ。

周勃は再び丞相となった。気が重かったに違いない。

同時に文帝は詔を出した。

「今、列侯の多くは都に居て、各々の食邑は遠く輸送費用はかさんで苦しい状況だ。

また列侯が民を教導することもできない。

列侯を領国に即かせよ。卿大夫や詔によりに長安に留まる者は太子を領国へ行かせよ。」

周勃は卿大夫の身分であった為に息子の周勝之を絳に遣ったと思われる。

(ちなみに勝之は公主(文帝の娘)を娶っていたが、不和であったという。)


同年十一月、日蝕があった。

翌文帝三年の十月と十一月にも日蝕があった。

丞相の役割は陳平の発言にもある通り陰陽の気を調和させることであり、

日蝕は陰陽の調和が崩れた為に天が警告していると考えられていた。

文帝は周勃に命じた。

「昨年、朕は列侯に領国に帰るよう命じたが、まだ行けない者が多数いる。

丞相は朕が重んじる人物であるゆえ、諸侯に率先して国へ帰ってほしい。」

周勃は亡き陳平に皮肉られたことや、客からの忠告を思い出し、

さらには文帝個人の考えに震え上がったに違いない。自らが立てた皇帝にクビを宣告されたのだ。

周勃は領国の絳へ下った。


絳での周勃は完全に萎縮してしまい、河東郡守や尉が絳に巡察に来る度に誅殺を恐れた。

よろいを着、家来に武器を持たせて彼らと面会した。

河東郡守や尉は不可解に思い、結果として「周勃謀反の疑いあり」と密告されてしまった。


文帝四年、文帝は廷尉張釈之にこの件を任せた。

張釈之は周勃を逮捕し、取調べを始めた。


周勃は元来朴訥であり、弁が立たなかった。(張釈之にも朴訥を指摘されている。当時相当有名だったのであろう)

獄吏ははっきりしない周勃の態度に業を煮やし、手荒く迫り辱めはじめた。

窮した周勃は獄吏に千金を与えると、獄吏は密かに「公主を証人とせよ」と助言した。

また、周勃は文帝を立ててから薄昭(文帝母の薄太后の弟)に多くの食邑を譲っていた。

薄昭は周勃を救うべく太后にとりなしを頼んだ。

薄太后も周勃に罪はないと思った。

さらに周勃が嫌悪していたおうが朝臣でただ一人周勃弁護に回り、無罪を説いた。

廷尉から届いた判決書も、「周勃無罪」であった。しかも無罪の証人は娘であった。

文帝は周勃を有罪にすることはできなくなった。

さらに文帝は薄太后に叱責を受け面目を失った。

薄太后はかぶっていた頭巾を息子に投げつけて言った。

薄太后 「絳侯が牢獄に入れられているとのこと。

かつて絳侯は玉璽を自らの手中に収め、北軍を率いて劉氏を救いました。

その機に謀反を起こさず、いま小県にいながらどうして反逆するのか!」

文帝 「い、いや・・もう結審して無罪が決まっております。

すぐに釈放します。」

文帝はすぐに使者を立て、周勃を釈放した。


釈放された周勃は、無罪になった経緯を人から聞くと言ったという。

「わしはかつて百万の軍を率いてきたが、獄吏がこんなに権威あるものだとは知らなかった。」

周勃が薄昭や袁おうに感謝したのは言うまでもない。


周勃は絳へ再び下った。


周勃が絳へ下ってからも様々なことがあった。

文帝六年に、「大臣に罪があった場合、刑を受けずに自殺せよ。」と決められた。

この命令が少しでも早ければ、周勃は危うく一命を失うところであった。

文帝十年、薄昭が自殺した。

外戚恩澤侯表に「坐殺使者、自殺。」とあるだけで詳細は不明だ。

し侯は子の薄戎奴が継いでいるので、文帝はどうやら薄昭を助けたかったようだ。

母への気遣いもあったのかもしれない。


文帝十一年、周勃は生涯を閉じた。



司馬遷は言う。

「周勃為布衣時、鄙樸庸人、至登輔佐、匡國家難、誅諸呂、立孝文、為漢伊周、何其盛也。」

周勃は庶民であった頃は賤しく朴訥で平凡な人であった。

しかしながら国を補佐する地位に昇るや、国家の難を救い呂氏を誅し文帝を即位させた。

漢の伊尹・周公といえるだろう。なんと盛んなことだ。


HOME 一族その後