文帝十一年、初代絳侯周勃が亡くなり武侯とおくりなされた。 子の勝之が継いだが文帝の後二年に殺人の罪で死罪となった。 列侯第四位であった絳侯は二代で断絶した。 周勝之の弟で周亜父という者がいた。 周亜夫は河内郡太守であったが、ある時河内の許負という有名な人相観が 亜父の顔を観て言った。 |
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許負 | 「あなたは三年後に列侯となり、そのあと八年で将となり国政を任され 位を極めるでしょう。しかし九年後には餓死するでしょう。」 |
周亜夫 | 「ははは。私の兄はすでに列侯を継いでおる。 もし兄が死んだら兄の子が継ぐ。わしに侯位は関係あるまい。 それに貴くなるのに餓死するという話もおかしい。理由を教えてくれ。」 |
許負 | 「あなたの鼻の脇から出ているシワが口に入っております。 これは餓死の相です。」 |
許負の言葉通り、三年経つと兄の周勝之が死罪となり絳侯は断絶した。 文帝は周勃の功を思い、周勃の子のうち評判の良かった周亜夫を抜擢し條侯とした。 ちなみに條の字は脩の読みと同じであり表記に混同があるようだ。 勃海郡に脩市県があり、ここが周亜夫の食邑だったと思われる。 結果から言うと、周亜夫は位を極めた後、非業の死を遂げる 許負の占いに仮託した逸話なのかどうかは判らない。 ちなみに諸説あるが許負は最後まで在野で終わったようだ。 娘を任侠の郭家に嫁がせ、生まれた子が『史記』游侠列伝に登場する郭解である。 |