第十話:周亜父伝1


文帝後六年冬、匈奴の軍臣単于が約定を破り六万騎を二手に分け辺境に侵攻してきた。

文帝は国境の防備を急ぐと共に、長安近郊にも軍を布いた。

長安の北の棘門に祝茲侯徐獅、宗正の平陸侯劉礼(後の楚王。文帝の従兄弟)を長安の東の覇上に、

河内郡太守周亜夫を長安の西の細柳にそれぞれ将軍として布陣させた。

匈奴が長安まで攻め寄せてくるわけではないので、漢軍の威容を見せる意味もあったであろう。

文帝は自ら軍を慰労する為、覇上、棘門と巡ったが、

将軍らは皇帝に遠慮し、また軍も粛然としていなかった。


文帝が細柳へ行くと、先駆の者が幕営に入ることすら許されなかった。

天子が到着する旨を伝えても取り合ってもらえず、遂に文帝が到着しても幕営に入れなかった。

そこで文帝は、節と詔を持たせた使者を周亜夫へ出した。

すると城門が開き城内へ入れたが、文帝は馬車を走らせることもできず徐行させられた。

文帝に続く群臣もこの扱いにみな驚いた。

周亜夫の待つ中営に着くと、亜父は一礼して言った。

周亜夫 「鎧を着た軍兵は拝礼は行わないものです。

軍礼をもってまみえるものです。」

文帝 「おお!朕も軍礼をもってむくいよう。

『皇帝はつつしんで将軍をねぎらう』と周将軍に申せ。」


礼を終えると文帝は去った。

群臣はみな驚愕したが、文帝だけは周亜夫を絶賛した。

「あれが真の将軍である。徐獅笳ォ礼の軍は子供の遊びに等しい。

敵に襲われれば将軍も虜になるだろう。

しかしとても亜父の軍を破ることはできないだろう。」としきりに賞賛した。


一ヶ月で匈奴の侵攻が止み、三軍は解散した。

周亜夫は中尉に任じられた。


一年後、文帝が亡くなった。

息子の景帝に、「動乱があれば周亜夫に軍を任せよ。彼こそ真の将軍である。」と言い残した。

周亜夫は父周勃と同じく国軍を託されたのだ。


景帝が立つと周亜夫はすぐに車騎将軍に任じられた。


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