第二話:育ての親の死


呂后もこの赤子を不憫に思ったか、かわいがった。

劉長も呂后によくなついた。


高祖十一年(BC196)、淮南王英布が反乱を起こした。

劉邦は自ら征伐へ出かけ、劉長を淮南王に封じた。

このとき、劉長は3・4歳であったはずだ。


英布討伐時の傷がもとで劉邦が死ぬと、呂后が政治を専らにし、

劉邦が他の夫人に生ませた子を次々と殺した。

しかし、劉長は呂后に愛されており無事だった。

この時、呂后の側近に審食其がおり左丞相となっていた。

彼は実務には携わらずに宮中を監督し、

呂后の寵愛をかさにきて権力をほしいままにしていた。


劉長は誰から吹き込まれたかわからないが、

審食其が母を救わなかったことを深く怨んでいた。

しかし劉長は表面には一切その感情を出さず、押し殺した。

呂后の寵臣であり、手出しができなかったからだ。


呂后八年(BC180)、育ての親であった呂后が死んだ。

この時、劉長は二十歳前後になっていた。

二度も母を失った劉長の悲しみはいかほどであっただろうか。

呂一族は誅滅され文帝が即位したが、やはり劉長は無事だった。

呂后とは母子の間柄であったが、高祖の子であったからであろう。

審食其は殺されてもおかしくなかったが、朱建の働きによって無事であった。


劉長は才能・力量ともに申し分なく、また怪力で有名であった。父親似であったのだろう。

また、彼は自分が高祖の子であることを誇りとしており、

文帝と自分だけが残された子であると強く意識していた。

文帝に対しても家族意識が強かったらしく、兄ではあるが主人であるとは考えなかった。


劉長は次第に驕慢になっていった。


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