呂后もこの赤子を不憫に思ったか、かわいがった。 劉長も呂后によくなついた。 高祖十一年(BC196)、淮南王英布が反乱を起こした。 劉邦は自ら征伐へ出かけ、劉長を淮南王に封じた。 このとき、劉長は3・4歳であったはずだ。 英布討伐時の傷がもとで劉邦が死ぬと、呂后が政治を専らにし、 劉邦が他の夫人に生ませた子を次々と殺した。 しかし、劉長は呂后に愛されており無事だった。 この時、呂后の側近に審食其がおり左丞相となっていた。 彼は実務には携わらずに宮中を監督し、 呂后の寵愛をかさにきて権力をほしいままにしていた。 劉長は誰から吹き込まれたかわからないが、 審食其が母を救わなかったことを深く怨んでいた。 しかし劉長は表面には一切その感情を出さず、押し殺した。 呂后の寵臣であり、手出しができなかったからだ。 呂后八年(BC180)、育ての親であった呂后が死んだ。 この時、劉長は二十歳前後になっていた。 二度も母を失った劉長の悲しみはいかほどであっただろうか。 呂一族は誅滅され文帝が即位したが、やはり劉長は無事だった。 呂后とは母子の間柄であったが、高祖の子であったからであろう。 審食其は殺されてもおかしくなかったが、朱建の働きによって無事であった。 劉長は才能・力量ともに申し分なく、また怪力で有名であった。父親似であったのだろう。 また、彼は自分が高祖の子であることを誇りとしており、 文帝と自分だけが残された子であると強く意識していた。 文帝に対しても家族意識が強かったらしく、兄ではあるが主人であるとは考えなかった。 劉長は次第に驕慢になっていった。 |