第一話:母の憤死


劉長は高祖劉邦の末子である。

母は趙王張敖(張耳の子。呂后の娘を娶った)の後宮にいた美人(官名)

であり姓を趙といった。


高祖八年、匈奴を討伐し平城で惨敗した劉邦は、

帰途趙を通過し趙王張敖のもてなしを受けた。

張敖は劉邦の女好きを知っていたかどうか解らないが、

趙姫を劉邦に進めた。趙姫は劉邦に愛され身籠った。

張敖は「これはめでたい」とばかりに、自分の宮殿には入れずに

別に宮殿を築いて、そこに住まわせた。

趙姫は男子を出産した。


張敖が劉邦をもてなした時、劉邦の態度は娘婿である張敖に対して非常に横柄であった。

張敖の食客であった貫高らはこれに憤慨し(張耳の頃からの食客であり、劉邦を同格とみなしていたのかも知れぬ)

劉邦を暗殺しようとした。

しかしこの計画は未然に発覚し、怒った劉邦は張敖を始め母子・妻・美人・兄弟らを

みな河内郡の獄に繋いだ。


趙姫もまた獄に繋がれたが、

彼女は役人に「私は陛下のご寵愛を受け、子がおります。」と告げた。

役人は劉邦へこのことを報告したが、

劉邦は貫高一派の事件に立腹しており、趙姫のことをそのままにしておいた。

趙姫の弟・趙兼は焦り、呂后の寵臣であった審食其にとりなしを頼んだ。

審食其は、呂后に「趙姫とその子を助けてやって欲しい。」と要請したが、

呂后は趙姫に嫉妬し劉邦への進言を拒否した。

審食其も呂后の態度豹変に恐れをなし、それ以上言うことができなかった。


全ての望みを失った趙姫は自殺した。

趙姫を哀れに思ったか劉邦に対して憤ったか、役人は赤子の劉長を抱いて劉邦に謁見した。

無言であるが痛烈な非難である。

劉邦は激しく後悔し、呂后に母として劉長の養育を命じた。

そして趙姫を故郷の真定県に葬った。
関係ないが、真定県といえば、趙佗の出身地でもあり、三国蜀の趙雲の出身地でもある。趙氏ゆかりの地に違いない。



劉長の生涯を追ってみると、母の死は彼の一生を左右したのかもしれない。


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