第十一話:桃李不言、下自成蹊




司馬遷は李広について次のように述べる。


傳曰「其身正、不令而行、其身不正、雖令不從。」其李將軍之謂也。

 『論語』に、「行いが正しければ、命令せずとも行われ、

 行いが誤っていれば、命令しても従わず。」とある。

余睹李將軍悛悛如鄙人、口不能道辭。

 私は李将軍(李広)の姿を見たことがあるが、真面目で田舎者のようで、

 口先でうまく弁じたてることはできなかった。

及死之日、天下知與不知、皆為盡哀。彼其忠實心誠信於士大夫也。

 李広が死んだ日となると、天下の人々は知るも知らぬみな李広の為に哀悼を捧げた。

 彼のその誠実な心は人々に本当に信頼されていたのだ。

諺曰「桃李不言、下自成蹊。」

 諺にもあるではないか。

 「桃や李はものを言わぬが、木の下には自然と小道ができる。」と。

此言雖小、可以諭大也。

 この諺は小さなことを言っているが、大きなことにも喩えることができるのだ。


司馬遷のこの賛は、数千年の時を越えた名文となり、

今や我が国の大学名や人名にまで使われている。




李広には三子があり、みな郎となった。

長男は李当戸という。

武帝の側に仕えていた時、寵臣であった韓嫣が武帝と戯れていたが、

わきまえるべき礼を超えていた。

そもそも韓嫣は年少であるにも関わらず武帝の愛を笠に諸臣に傲慢であり、

見かねた李当戸は韓嫣を殴りつけた。

韓嫣は逃げ出したが、一部始終を見ていた武帝は李当戸を評価した。

李当戸は父より先に若くして死んだ。

当戸が死んだとき、妻の腹には子どもがいた。李陵である。

李陵については次話以降で取り上げる。


次男は李椒といい、父と同じく辺境を守り、代郡太守となったが父に先立って死んだ。


三男は李敢といい、前話にある通り李広が死んだときに霍去病に従っていた。

郎中令に任命されてまもなく、父が死ななければならなかったのは衛青のせいであると怨み、

時の大将軍衛青を殴った。

衛青は李広を死に追いやったことを認めていたのか、

事を荒立てることを好まずこのことを一切公表しなかった。

しかし甥の霍去病が殴打事件を知り、密かに報復を狙いはじめた。

李敢や霍去病が武帝に従って甘泉宮に行き狩猟を行ったとき、

霍去病はどさくさにまぎれて李敢を射殺した。

武帝は霍去病を寵愛しており、「李敢は鹿の角に刺されて事故死した。」と発表した。

李敢の武勇を知る者は、あの李敢が鹿によって死ぬとは思わず、

発表は嘘であると気付いたであろう。

それから一年余りして霍去病も病死した。


李敢にはがおり、武帝の皇太子であった劉拠の侍女となり、寵愛された。

劉拠が反乱を起こした時まで生きていたのかどうか不明である。

その兄弟の李禹もまた太子に寵愛された。

李禹は蓄財を好んだが、勇敢であった。

ある時、中貴人(寵臣か、宦官か?)に侍って酒を飲み、侮辱した。

中貴人は李禹を恐れてうやむやにしたが、後で武帝に訴えた。

武帝は怒り、李禹を出頭させて縄で縛り、剣を与えて檻の中に吊り下げた。

李禹が地面に着く前に、武帝は檻に虎を放った。

李禹は自分を吊り下げている縄を剣で断ち切って着地し、虎に向かっていった。

武帝は李禹の勇気に驚き、虎を引っ込めさせた。

その後、従兄の李陵が匈奴に降った時、「禹は逃亡して李陵の下へ行こうとしている。」

と武帝に讒言した者がおり、李禹は逮捕されて死んだ。


李広の従弟李蔡は丞相となり、位人臣を極めていたが、

李広が自殺した翌年の元狩五年(BC118年)三月、罪があり自殺した。

罪状はよく分からぬが以下の通りである。

李蔡は景帝陵のそばに墓地を下賜され、その面積は二十畝(91.2アール)だった。

しかしながら、李蔡は三頃(300畝、1368アール)も盗み取り、

そのほとんどを売り飛ばして四十万銭を得た。

さらに神道(景帝陵参道のことか)外の空き地一畝(4.56アール)を盗み、

その中で埋葬(誰の埋葬かは分らぬ)を行った為、不敬罪に問われたという。



李氏系図







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