第二話:「惜乎、子不遇時」文帝十四年、匈奴が蕭関(安定郡高平県付近)を破り侵入した。 文帝は親征を決意したが、群臣や薄太后に止められ、 張相如を大将軍として匈奴を撃ち敗走させた。 李広は良家の子弟としてこの戦に従軍し、 家伝の射術をもって敵を討ち、首を取り、捕虜とすることが多かった。 戦後、戦功で郎となり騎常侍に任ぜられた。 しばしば文帝の狩猟に従い、猛獣を素手で打ち殺した。 文帝は李広の勇力に驚き、 「惜しいなあ。どうやら広は生まれてくる時代を間違えたようだ。 もしも高祖の時代に生まれていたなら、万戸侯などわけもなく得られたはずなのに。」 と言って李広を慰めた。 景帝が即位すると、騎郎将に昇進した。 呉楚七国の乱が起きると驍騎都尉となり、周亜夫に従って昌邑城に入り戦功を挙げた。 李広の働きに驚いた梁王劉武は李広に将軍の印綬を授けたが、 これが軍令違反とみなされたのか、都に帰還しても李広は行賞されなかった。 しかし李広の武略は天下に顕かであり、北辺の上谷郡太守に任ぜられた。 |