第八話:易水


燕に秦舞陽という勇士がいた。太子丹は彼を荊軻の介添えにしようと考えていた。

秦舞陽は十三歳で人を殺し、誰も正面から直視することを避けた人物であった。

さらに彼は名将の孫でもあった。


しかし荊軻は秦舞陽ではなく、自分の友人を介添えにしようとしていた。

その友人は遠方におり、まだ到着していなかった。

それが判らなかった太子は、荊軻がここに来て躊躇しているのではと気が気でなく、

つい荊軻に言ってしまった。田光の時と同じパターンか・・・)

太子丹 「ずいぶんと日が経ちましたが、荊卿には何かお心当たりでもおありですか。

秦舞陽を荊卿の介添えとして付けたいと思うのですが。」

荊軻 「誰を遣わすと?秦舞陽ですと?

一度行けば帰らぬのは私。

しかもただ一振りの匕首だけで秦王を刺そうとしている。

私が出発しないのは、共に行く友人を待つため。

それを太子さまが遅いと言われるならば、ここでお別れしましょう。」

荊軻は怒りを抑え、かくて出立することとなった。


太子、太子の食客、計画を知る者は、皆白い衣装と冠を着て荊軻を見送った。(白装束は葬式の服装)

易水のほとりまでくると、皆で道の神に旅の安全を祈った。

祈り終えると見送りに参加していた高漸離が筑を打ち鳴らし、荊軻が合わせて歌った。

それは悲愴な調べであり、男達は涙を流した。

荊軻は再び歌いだした。今度は魂の叫びであった。

「風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還」
大意「寒風吹きすさび易水つめたく、壮士ひとたび行けばふたたび帰らず。」

男達は皆目を怒らせ、毛は逆立って冠を突きあげたという。

荊軻は馬車に乗り出立したが、遂に一度も後ろを振り返ることはなかった・・・


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