第九話:事不就


荊軻は秦に到着すると、秦王政の寵臣であった中庶子(王族の戸籍を司る)の蒙嘉に

千金を賄賂として送った。

蒙嘉は早速秦王政に謁見し、荊軻の便宜を図ってやった。

蒙嘉 「燕王は大王さまのご威光におそれおののき、我が軍に歯向かうつもりはありません。

我が国の臣下となって貢物を差し出し、先祖の宗廟さえ守れればよいと考えております。

大王さまを畏れるあまり、燕王自身では申しかねるために荊軻という者が使者となり、

樊於期の首と督亢の地図を函に封じてやってきております。

大王さま、どうかお指図をくだされますよう。」

えい 「おお!そうか。遂に燕も我が臣下になると申すか。

その使者に会おう。ははは。」

秦王は朝廷での正装を着て、九賓の礼(引見の礼の中では最高のもの)を用い

咸陽宮で引見することとなった。


荊軻は樊於期の首を入れた函を捧げ、秦舞陽は督亢の地図を納めた小箱を捧げ、順に進み出た。

玉座の前の階段まで来ると、秦舞陽の顔色が変わり小刻みに震え出した。

居並ぶ群臣は皆あやしく思った。

荊軻はそれを察し、振り向いて秦舞陽のざまを笑い、進み出て謝った。

荊軻 「この者は、北方未開の野蛮な田舎者。今まで天子さまに拝謁したこともございませぬ。

このように畏れおののいておりますが、どうかご寛容のうえ

使者の役目を果たさせてくださいますよう。」

えい 「うむ。督亢の地図をこれへ。」

荊軻 「ははっ。」

荊軻は震える秦舞陽が持つ小箱を開け、地図を秦王政へ渡した。

秦王が重々しく地図を広げるうちに、地図の最後に巻き込んであった匕首があらわれた。

荊軻は左手で秦王の袖を掴み、右手で匕首を握って突き刺した。

が、体に届かない。

秦王は驚き身を引いて立ち上がった。袖はちぎれた。

政は慌てふためいて鞘を持って剣を抜こうとするが抜けない。刀身が長すぎるのだ。

群臣は仰天し、度を失っている。

群臣は殿中では武器を帯びてはいけない規則があり、

また郎中(護衛官)はお召しがない限り昇殿できない。

荊軻は秦王を追い、政は柱を回って逃げる。

群臣は素手で殴りかかる者もいた。侍医の夏無且は持っていた薬嚢を荊軻に投げつけた。

なおも政は柱を回って逃げまどい、慌てるばかり。

群臣の中から「大王、剣を背中へ!」と叫んだ者がいた。

秦王ははっと気づき、剣を背負って抜き放つと荊軻に斬りかかった。

荊軻は左腿を傷つけられ、歩けなくなった。

そこで匕首を秦王目がけて投げつけた。が、当らず匕首は銅の柱に当った。

秦王は素手の荊軻をめった斬りにした。

荊軻は柱に寄りかかって笑って言った。

「成功しなかったのは、秦王を生かして脅しつけ、何としても約束を取りつけて

太子さまにご報告するつもりだったからだ。」


やがてお付の者が押し出てきて荊軻を殺した。

事は失敗した。


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