秦開と孫の秦舞陽 |
時は、戦国時代。 秦楚斉韓魏燕趙が天下を分けあっていた時代のことです。 中国北方の燕国は匈奴と国境を接し、国境地帯は度々侵略されてきました。 そんな苦々しい匈奴を討ち、燕を護った人がいました。その名を秦開(しんかい)といいます。 秦開は幼時に匈奴の人質となり、長い間匈奴の地に住んでいました。 彼は匈奴の言葉を覚え、誠実で義を守る人となり、匈奴人は彼を大層信頼しました。 彼は燕国に帰ると、匈奴を熟知しているとのことで国境守備を一任されます。 ある時、東胡(匈奴の一部族)が大挙して国境地帯に現れました。 秦開は打って出て東胡軍を散々に撃破し、千里以上も彼方に追い払いました。 以後、秦開がいる間は東胡は燕にはあまり近づかなくなりました。 秦開は燕長城を築き、匈奴の侵入に備えました。 この長城は彼の死後も大いに役立ち、匈奴を度々防ぎました。 そして、秦の始皇帝によって燕長城・趙長城・魏長城・秦長城が結ばれ、 現在の万里の長城の原型となりました。(今の長城はずっと後になって造られたものです) その名将秦開の孫が秦舞陽(しんぶよう)です。 秦舞陽は、荊軻が始皇帝(当時はまだ秦王)を刺しにいった時、同行した男です。 彼は13歳で人を殺し、燕では誰も正面から視線を合わせる者はいませんでした。 しかし彼は始皇帝を刺す、いざという時に怖気づきブルブル震えて何もできませんでした。 彼が何も手助けしなかったから荊軻の暗殺は失敗したともいえます。 なんか、お祖父さんの名前を辱しめただけのような・・・。 荊軻は秦舞陽が同行すると決まったとき怒ったそうですから、 彼の勇気は偽物だと知っていたのでしょうね。 |