第九話:丞相として死す



灌嬰は周勃・陳平らと後嗣問題を定め、代から文帝を迎えた。

文帝は詔を出しその中で真っ先に「嬰はけい陽に留まり、諸侯と謀を合わせて呂氏を誅した。」と

激賞し、灌嬰の功績を周勃に次ぎ陳平と並んで第二位とし、食邑三千戸を増し、

黄金二千斤(約440Kg。文帝本紀では二千斤、灌嬰伝では千斤と記載。)を与え、軍権最上位の太尉とした。


文帝が即位した後、文帝后であった竇姫の実兄竇建と実弟竇公国が見つけ出された

親族に盲目的な愛を捧げる竇姫に可愛がられ、微賤から一気に富貴な身分となった。

周勃・灌嬰ら功臣達は呂氏の専横を思い出し、

「我々は死ぬまでこの兄弟に命を握られるだろう。

呂氏の二の舞にならぬよう、良い師父を付け兄弟を善導しよう。」

このため竇兄弟は謙虚な君子となり、驕り高ぶることはなかった。


文帝二年、周勃と共に丞相を務めていた陳平が死んだ。

文帝三年十二月、丞相周勃が罷免され、灌嬰が太尉から丞相へ昇格となった。

太尉の官は廃止され、丞相がその職務を吸収した。

周勃は強制的に領国へ帰らされたが、誅殺を恐れて武装していたのを見ると、

丞相とはいえ灌嬰もかなり文帝に遠慮していたに違いない。

こうした功臣の力を殺ぐ法案は、賈誼によって発案されたものだった。

賈誼は文帝に才能を愛され、

若干二十余歳で太中大夫(政策・進言を掌る。定員無し。陸賈も太中大夫になった)になっていた。

功臣たちは賈誼を恐れ、灌嬰は周勃らと謀り賈誼を失脚させた。

賈誼は左遷され、遠く長沙王の太傅となり任地へ赴いた。

(ちなみに賈誼の思想はちょう錯らに引き継がれ、呉楚七国の乱終結をもって結実する。)


文帝三年五月、匈奴の右賢王が北地郡(高奴の西側一帯)に攻め込み略奪を働いた。

文帝は丞相灌嬰を将軍とし、八万五千の軍勢を高奴に集結させた。

文帝自らも高奴まで出向き、万全の体勢となった。

右賢王は遁走し軍は解散かと思われたが、

処遇に不満のあった済北王劉興居(劉章の弟、章はすでに死去)が反乱を起こした為、取って返し

柴武が大将軍となって興居を討ち自殺させた。



灌嬰は文帝四年十二月、丞相在任中に亡くなった。後任の丞相は張蒼であった。

「懿」侯と諡された。






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