第十話:一族その後



『史記』には珍しく、灌嬰の個人的な部下が載っている。

灌孟といい、元の姓は張である。

潁陰の出身とあるので、もしかすると潁陰侯になった後に拾い上げた人物かもしれない。

灌嬰にかわいがられ灌姓をもらい、二千石(郡太守レベル)まで引き上げられた。


灌嬰の死後、呉楚七国が反乱を起こした際に潁陰侯を継いでいた灌嬰の子灌何は

絳侯周勃の子周亜夫に属すことになった。

灌何は戦争経験のある灌孟に校尉として従軍するよう求めた。
(灌何も周亜夫も功臣二世だが、まだまだ楚漢戦争従軍経験者がいたようだ。)

灌孟は老齢で従軍するつもりは無かったが、

灌何に強いられため息子の灌夫(字は仲孺)と戦争に参加することとなった。

灌孟は鬱々として気が晴れず、奮戦して呉軍の中で戦死してしまった。

息子の灌夫は遺骸を守って故郷に帰ることを拒み、呉王の首を取って仇をとろうとした。

寡兵で呉軍に斬り込み、瀕死の重症を負って帰陣した。

たまたま良薬があり快方に向かったが、灌夫はもう一度突撃したいと申し出た為、

周亜夫は彼の戦死を恐れ突撃を許可しなかった。

戦争終結後、灌夫の勇名は天下に轟いた。


灌何は灌夫を景帝に推薦し、景帝は灌夫を中郎将に任じた。

後、法に触れて罷免され、武帝が即位すると淮陽郡太守とした。

その後、太僕に遷った。

建元二年(前139年)酒の席で悪酔いした灌夫は、

長楽宮衛尉の竇甫(竇太后の弟)が礼を失したのに憤慨して殴りつけた。

武帝は灌夫が竇太后に殺されると思い、燕の相として地方へ出した。

後、またしても法に触れ、長安に住んだ。

性格が剛直で酒癖が悪く、自分より目上の者には従わず、目下の者はかわいがった。

彼の一族や賓客は利権をほしいままにし、

潁川の者は「潁水清、灌氏寧、潁水濁、灌氏族」と歌った。(族は一族皆殺しの意)


ある時、丞相田ふんの酒宴に招かれたが、そこでまたしても悪酔いし

灌嬰の孫の臨汝侯灌賢と長楽宮衛尉程不識を侮辱した。(またしても長楽宮衛尉を・・・)

ふんは面目を失って怒り、灌夫を獄に下し灌夫とその一族は皆殺しとなった。





灌嬰の死後、潁陰侯は子の灌何が継いだ。

景帝中三年に亡くなり、平侯と諡された。

子のが継いだが、十三年後(元光元年か)に罪があり潁陰侯を免ぜられた。

灌嬰の頃は潁陰侯の戸数は五千戸であったが、

灌彊が侯を失った頃には八千四百戸に増加していたという。

失意の灌彊は、同じく失職していた漢飛将軍と呼ばれた李広(李陵の祖父)

元光六年(前129年)頃から数年にわたって藍田の南の山中に隠棲していたという。

その後の灌彊の動きは『史記』『漢書』ともに不明である。


元光二年(前133年)灌嬰の孫の灌賢が臨汝侯に封じられた。食邑は千戸だった。

恐らく建国功臣の断絶を惜しんだ武帝のはからいであろう。

その後、酒席で程不識と共に灌夫に罵られたのは前に書いた通りである。

しかしながら、臨汝侯もたった九年で断絶してしまう。

元朔五年(前124年)に贈収賄の罪(漢書では傷害事件の犯人を匿った罪)で臨汝侯は一代で断絶した。


宣帝の元康四年、建国の功臣の子孫を復家させ先祖の祭祀が絶えることの無いよう詔が出た。

灌嬰の曾孫の官首(武功爵のうち五番目。武功爵は金で買えるが相当の金持ちでないと買えなかった。)であった

灌匿を復家させた。

その後の灌家は記録が無く不明だが、哀帝元寿二年八月に
(哀帝は六月に崩御している。王莽によって平帝が擁立される直前のことだと思われる。)

灌嬰の後裔にあたる灌誼が関内侯に封じられたが、

恐らく王莽の頃に関内侯も消滅したと思われる。






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