第七話:楚漢戦争後


漢王五年二月、劉邦は帝位につくと灌嬰に食邑三千戸を加増した。

七月、燕王臧荼が背き(背いた明確な理由は記されていない)代を占領した。

高祖は親征し、灌嬰は車騎将軍として従った。臧荼は捕らえられ、盧綰が燕王に立てられた。


六年十二月、謀反の疑いがある楚王韓信を陳で捕らえ淮陰侯に格下げした。

これにより本格的に功臣の封侯がはじまり、

灌嬰は潁陰侯に封じられ位次は夏侯嬰に告ぐ第九位であった。


七年十月、韓王信が匈奴に降りまたもや高祖は親征した。灌嬰らもこれに従った。

灌嬰は馬邑に至り、各国から集まった車騎を率いて匈奴を討った。

途中、凄まじい寒気が軍を襲い2・3割の兵が凍傷で指を落とした。

それでも勝ちに乗じて高祖と共に平城まで進んだ。

しかし匈奴の敗走は偽計であり、平城で高祖を始め諸将は七日間包囲された。

陳平の計略で脱出に成功したが、この敗戦は対匈奴外交において大きな痛手であった。

八年三月、高祖は従軍して平城に行った者や平城付近の諸城を守った者は終身夫役を免除した。

それほど、この包囲は厳しかったのであろう。


十年九月、代の相国陳き長安にいた韓信と呼応して反乱を起こした

趙の常山郡は二十五城あるうち二十城を失ったほどの大乱であった。

高祖は邯鄲に入り兵が集結するのを待ち、灌嬰もそれに従った。

思うように兵が集まらず、陳きの将を買収したり策を弄した。

きの将侯敞は一万余の兵を率いて示威巡回し、高祖を愚弄した。

十一年に入ると充分な兵が集結し、灌嬰は攻勢に出て侯敞を曲逆で斬った。

代へは周勃が攻め入り、馬邑に至りこれを降した。

東垣は陳きの将趙利が守っており、高祖に従って灌嬰も攻城軍に加わった。

しかし守りは堅く、趙利の兵は高祖を罵る程であった。

高祖は怒り攻撃を続け、城は降伏し罵った士卒は斬られた。

きは周勃が兵を率いて追った。


十一年七月、淮南王黥布が反乱を起こし荊王劉賈を攻殺し、

淮水を渡って楚王劉交を薛まで敗走させた。

高祖は黥布の反乱を重く見て親征を決意し、灌嬰らを先発させた。

灌嬰は車騎将軍として進み、黥布軍を相で打ち破った。

兵を進めて黥布の上柱国・大司馬を打ち破り、黥布の将肥銖を撃破した。
(黥布は戦国楚の官職をまだ用いていたことがわかる)

灌嬰自ら左司馬を捕らえ、勢いにのって淮水に至った。

灌嬰は淮水までを取り戻した功績を認められ、二千五百戸を加増された。

十二年十月、高祖自ら黥布を討ち敗走させた。

しかしこの戦いは激戦であり、高祖は矢に当たって負傷しこれが誘因となって四月に崩御した。

負傷した高祖は黥布の首を見ることなく都へ戻り、

灌嬰の食邑を潁陰県の五千戸と定め従来の食邑を除いた。

灌嬰は黥布を追い従わぬ城を落とし、黥布は逃亡先で長沙王に殺された。

灌嬰らが長安へ帰ると、陳きは周勃に斬られており南北の反乱は終息した。

高祖は反乱の終息を待っていたかのように崩御した。


灌嬰の戦績は、高祖に従った時に二千石の者を二人生け捕り、

別軍を率いて敵を打ち破ること十六、城を攻め落とすこと四十六、

国を平定すること一、郡が二、県は五十二、

生け捕ること将軍二人、柱国が一人、相が一人、二千石は十人であった。






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