第十四話:非業の死


紀元前201年、韓信は楚王の位を取り上げられ、淮陰侯となった。

それから四年、韓信は劉邦に拝謁もせずに鬱々と暮らした。

その間に、代王の韓王信、趙王の張敖が次々と粛清された。

韓信も、何故自分が楚王の位を追われたか、充分理解したに違いない。



韓信と親交のあった陳は鉅鹿太守に任命され、

さらに韓王信に代わって代王となった劉邦の息子劉如意の宰相となった。

劉如意は、戚姫と劉邦の間に生まれた子どもで劉邦に溺愛されていた。

また、代というのは匈奴と国境を接し、漢にとっては非常に重要な土地であった。

この陳を代相国にするという人事は、劉邦が陳をどれだけ信頼していたか判る人事である。


は、任地に旅立つ前に、敬愛する韓信に別れの挨拶を述べに来た。
(韓信はいまだに隠然たる影響力を持っていたことが判る)

韓信は陳の手をとって挨拶し、側近を遠ざけて二人だけで庭を散歩した。

そして、天を仰ぎ見て嘆息して言った。

韓信 「・・・・・・。

きみは、一つ私の相談に乗ってくれないか?

きみに話したいことがあるのだ。」

「韓将軍、何なりとご命令くだされ。」

韓信 「きみの任地は、天下の精鋭が出る処だ。

そして、きみは陛下の信頼厚き寵臣だ。

きみが謀反を起こしたと報告があっても、陛下は信用しないだろう。

二度の報告で、やっとあなたの謀反を疑うだろう。

三度目の報告が来れば、間違いなく腹を立てて陛下自ら兵を指揮し、

あなたを滅ぼしに出撃するだろう。

その時、私は内部で立ち上がって都を占領する。

そうすれば、天下は思うとおりになるのだが・・・。」

「・・・。

謹んで仰せの通りにいたします。

将軍の才ならば、必ずや成功いたします。やりましょう。」


こうして、韓信は陳と密約を結んだ。

紀元前197年、陳は代へ赴くと約束どおり反乱を起こした。

韓信の言った通り、劉邦は激怒し自ら兵を率いて都を出た。

韓信はいつも通り仮病を使って従軍せず、陳に密使を送った。

「私にかまわずに反乱しなさい。私は今からきみを助けますぞ。」


韓信は夜中に、自分の家臣と一緒に勅命だと偽って諸官庁の囚人・労務者を解放して、

呂后と皇太子盈を襲撃する計画を立てた。

そして兵の配置まで決め、陳からの情報を待った。


しかし、この計画は漏れた。
(漏れた経緯は『史記』に書いてあるのだが、多分嘘であろう。
功臣が粛清される場合、計画が漏れる経緯が酷似しているからだ。
韓信の家臣にも漢の密偵が混ざっていたのであろう。)


呂后はこの計画を聞いて震え上がった。

相手はあの楚を滅ぼした韓信である。

この段階になって韓信一人を召し出すのは無理で、思い切って呂后は相国蕭何に相談した。

蕭何は一計を案じ、陳は負け誅殺されたとの偽情報を流した。

その結果、諸侯や臣下たちはみな祝賀を述べに参内した。

蕭何はさらに追い討ちをかけるように韓信に伝えた。

「病気ではあろうが、無理にでも参内して祝賀を申されよ。」


韓信は、陳は失敗したかと早合点し参内してしまった。

呂后は韓信がやって来ると、潜ませていた屈強な護衛兵に韓信を取り押さえさせ、

あっという間に縛った。韓信は鍾室(つりがねを安置している室)に連行された。

韓信は今起こった事態をすべて把握し、言った。

通の策に従わず、女子供に騙されたのは無念だ。」

かくて韓信は斬られ、親族もすべて誅殺された。



劉邦は陳討伐を配下の将に任せ、都に帰還した。

韓信は既に呂后の手によって殺されており、劉邦は韓信の功績を思って悲しんだり、

漢の安泰を思って喜んだりした。

そして、韓信は死ぬときなにか遺言はなかったか、と聞いた。

呂后がありのままに答えると、劉邦は怒った。

「そいつは斉の弁論家だ。ひっ捕えろ!」


かい通はすぐに逮捕された。

都にかい通が護送されてくると、劉邦は彼に激しく毒づいた。

劉邦 「お前が韓信に謀反を教えたのか!」

かい 「その通りです。もちろんわたしが教えました。

あの馬鹿がわたしの計略を採用しなかったから、破滅を招くはめとなったのです。

もしあの馬鹿がわたしの計を採用していたら、陛下はあいつを滅ぼせなかったでしょう。」

劉邦 「なんだと!まだ言うか!!

こいつを煮殺せ!」

かい 「嗚呼、わたしは無実ですぞ・・・。」

劉邦 「お前は韓信に謀反を教えたのだ。何が無実だ!!」

かい 「犬は飼い主以外の人間には吠えるのです。

あのとき、わたしは韓信しか知らず、陛下を知りませんでした。

それに、あの当時は天下を望む勇者は数多くいました。

天下を取れなかった者は、力不足だっただけなのです。

彼らを全員殺すことなどできましょうか。」

劉邦 「ははは!!

これは一本取られたな。

こいつを助けてやれ。」


こうして韓信は死に、かい通は生きのびた。



司馬遷は言う。

「假令韓信學道謙讓、不伐己功、不矜其能、則庶幾哉、

於漢家勳可以比周、召、太公之徒、後世血食矣。

不務出此、而天下已集、乃謀畔逆、夷滅宗族、不亦宜乎!」


和訳
もし、韓信が道理を学び、謙虚で自分の功績を誇らず、自らの才能に奢らなければ、

ほとんど理想的な人であったと言える。

漢を建国した劉氏に対する功績を考えれば、

周の時代の功臣周公・召公・太公などと同列に扱われ、

後世まで韓信は祭られてお供え物を受けられたはずであったのだが・・・。

しかし、韓信はこれらのことを努力せず、天下が定まってから反逆を企てた。

一族皆殺しになったのも仕方が無いのではないか。


HOME