高祖六年、代王であった韓王信が反乱を起こし匈奴に降った。 翌年十月、劉邦は自ら討伐に乗り出したが、平城で匈奴の大群に囲まれ 陳平の奇策で九死に一生を得た。 十二月、高祖劉邦は長安への帰途、趙に立ち寄った。 趙王張敖は自ら配膳し食事を勧め、礼を欠くことなく恭しく接待したが、 劉邦は両足を投げ出して座り張敖を怒鳴りつけ、極めて礼に欠けた行動をとった。 趙丞相の趙午をはじめ家臣たちは皆憤慨し、張敖に反乱を勧めた。 しかし張敖が義によって反乱はできないと断固として反対したため、 趙午らは単独で劉邦暗殺を謀った。 しかし計画は未然に漏れ、張敖は捕らえられ、趙午は自殺した。 貫高・田叔・孟舒らは張敖の無実を証明する為に自殺せず、 赤い囚人服を着て自ら頭髪を剃り落し首枷をはめ、 趙王の奴隷であると称して長安まで張敖の後についていった。 貫高らは焼きごてで体を刺され、ムチで体を打たれ痛めつける場所が無くなるぐらい の拷問をくらったが、張敖の無実を主張し続けた。 劉邦は貫高の義侠に感動し、張敖を赦し趙王の位を取り上げて宣平侯に落とした。 また劉邦暗殺首謀者であった貫高・田叔・孟舒らもみな赦した。 しかし貫高だけは「お上殺しの悪名を背負っては生きていけない」と言って自刎して果てた。 宣平侯張敖はお上へのお詫びに田叔・孟舒ら十数人を劉邦に推挙した。 劉邦はすぐに召しだして引見し田叔らと語り合ったところ、 宮廷でも彼らに勝る者はいなかった。 劉邦は大いに喜び、田叔を漢中郡太守に、孟舒を雲中郡太守に任命した。 ![]() 漢中郡は漢王朝発祥の地であり田叔以降も侯が置かれず特別な土地であった。 雲中郡は対匈奴最前線であり、孟舒以降も多大な被害を出しながら匈奴侵攻を食い止めた。 田叔らは劉邦に見込まれたのだ。 |