第三話:劇孟


朱家が亡くなったあと、楚の田仲が游侠として高名だったが

事跡が伝わっておらず詳細なことは判らない。

田仲亡きあと、洛陽の劇孟が游侠として顕れた。



劇孟の行いは朱家とほぼ等しかったが、賭博や若者の戯れを好んだ。(軽薄を意味すると思われる)


呉楚七国の乱の際、太尉周亜夫は軍を率いて函谷関を出、

劇孟と面会し、まだ呉楚が劇孟を味方に引き入れずにいることを喜び言った。

「呉楚七国は叛乱をおこしながらも、劇孟を得ようとしていない。

わしはそれだけで奴等が何もできないことがわかった。」

周亜夫は劇孟を一敵国の勢力と同等と見なしたのだ。



その後、劇孟は恵帝陵のある安陵へ遊びに行った。

安陵にはがおり、会いにいったのだ。

は盛大にもてなしたが、ある金持ちが疑問を呈した。

金持ち 「劇孟は博打うちだと聞いています。

袁将軍はなぜ博徒ごときとお付き合いされるのですか。」

「劇孟はたしかに賭博うちだが、彼の母が亡くなったときに

葬儀に駆けつけた車は数え切れなかったという。

このことから見ても、彼は傑出した人物であるといえる。

人は誰でも危急のときがあるものだ。

そんな時に救い出してくれるのは、ただ劇孟と季心(季布の弟)だけではないか。

あなたはいつも数騎を引き連れているが、危急の時に頼りになるものか。」

こうして袁は金持ちと絶交した。

人々は袁を称賛したという。



劇孟がいつ亡くなったかは判らない。

彼の家には財産が殆ど残されておらず、わずか十金すら無かったという。


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