第二話:朱家


朱家の伝を紹介する前に、なぜ司馬遷が游侠伝を立てたのか述べられているので紹介する。

『余悲世俗不察其意、而猥以朱家郭解等令與暴豪之徒同類而共笑之也。』
 世間の人々が游侠の志を理解しようとせずに、みだりに朱家や郭解を横暴な一味と同類とみなし、
 一緒くたにして笑っていることを私は悲しく思うのだ。


司馬遷は游侠に対し理解があったようだ。当然、筆にも力が入っている。




朱家は魯の出身である。

魯は古くは孔子の祖国であったが滅び、秦代に薛郡となり、高后元年に魯国となった。

漢書地理志によると、魯国は十一万戸以上を抱え、

そのうち魯県は半分近い五万二千戸を誇った。

人口は魯県だけで恐らく二十五万人を超えていたであろう。


朱家は高祖劉邦と同世代人であり、大侠であった信陵君や張耳を知る世代であった。

朱家は、周囲の人が儒学を学んだのにもかかわらず、侠を以って名声があった。

朱家の配下で勢力のあった人物は百以上おり、とるに足らぬ者は数えきれなかった。

他人の困窮を救う場合はまず貧しい者から始め、わが身を省みず他人の危急を救った。

しかしながら、恩恵を施した人が感謝の挨拶に来ることを何よりも嫌がった。

朱家は終生その才を誇らなかった。

家には財が無く、衣服は色が揃わず、車は子牛に牽かせていた(馬車よりも下等であった)


項羽が滅んだ後、項羽の将軍であった季布は逃亡した。

季布は項羽に従って劉邦を散々苦しめた為、その首に千金の賞金が懸けられ、

季布を匿まった者は三族皆殺しであった。

濮陽の周氏は任侠であり季布を匿ったが、噂が広まり庇いきれなくなった。

そこで周氏は朱家に季布を預けた。

朱家はやはり季布を庇いきれないと判断し、その命を助けるために都へ上り、

汝陰侯夏侯嬰に面会を求めた。


朱家の眼識は確かであったとしか言いようがない。

夏侯嬰は、かつて傷害罪に問われた劉邦を庇う為、

一年間牢屋に放り込まれて拷問を受けたことがあった。

が、最後まで証言を変えず劉邦は無罪となった。

また、項羽に猛追され軍が瓦解した時、劉邦は二人の子どもを馬車から突き落とし逃げようとした。

夏侯嬰は子どもを拾い上げたが、劉邦は怒り再び子どもを投げ落とした。

夏侯嬰は再び拾い上げ、最後は劉邦と喧嘩になり斬られそうになったが、

結局子供達を守り通したことがあった。

漢臣では、夏侯嬰こそ真の任侠であった。


夏侯嬰は天下の大侠朱家が訪ねてきたことに驚き、篤くもてなした。

朱家は説いて言った。

朱家 「滕公(夏侯嬰)は季布に大罪があるとお思いですか?

家臣が主の為に働くのは当たり前のことです。

項羽の家臣を皆殺しにできるとお思いですか?

私怨で季布を追捕するのは、皇帝陛下の器量の狭さを表すことにほかなりません。

季布ほどの賢人ならば、匈奴か越に逃げ込み陛下に抵抗するでしょう。

滕公は季布を赦すよう陛下にに助言するべきです。」

夏侯嬰 「・・・(これは・・・季布は朱家に匿われているな)・・・。

わかりました。

主上が考えを改めるよう諫言してみましょう。」

こうして季布は赦され、以後出世コースを走ることとなる。

これ以後、やはり朱家は生涯季布と会わなかった。

朱家の名は更にあがり、函谷関より海に到るまで朱家と交わりを願わない者はなかったという。


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