第二話:威武侯


劉邦が起って一年二ヶ月、首領だった項梁が戦死したため一旦兵を返してとうへ陣を構えた。

劉邦は周勃を襄賁の県令に任命した。県令として実態があったのかどうかは疑わしい。

再び劉邦に従って進軍し、武関を撃破し秦を滅ぼした。(詳しくは張良伝を参照

項羽が後から来て、劉邦を漢王とした。

この時多くの将や兵が劉邦を見捨てたが、、周勃は劉邦を見捨てずに漢中へ向かった。

劉邦は周勃を威武侯とした。(侯としての実態は不明)


周勃は朴訥であり剛毅で情に厚かった為、劉邦にその人柄を認められていた。

また学問や多弁を好まず、学者や弁士と接見する際には東に向かって座り(客に対する礼を失する)

「早く結論を言え。」と責めた。

絵に描いたような愚直さ・飾り気の無さであった。


劉邦は韓信を得て漢中を脱出し、三秦を攻めた。

周勃は戦功第一になることが多く、三秦平定後には嶢関の守備を任された。

ちなみに、嶢関は秦嶺山脈の東端に位置し、藍田谷と呼ばれる渓谷にあり、

また河水(黄河)水系と長江水系の分水界でもある重要な土地であった。


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