第四話:秦を滅ぼしたのは…
劉邦が景駒の元へ行って兵を借りた後、景駒は北進してきた項梁に滅ぼされた。
劉邦は項梁が薛に留まり反乱軍を集めていると聞くと、薛に行き項梁傘下の将となった。
項梁は范増という老人の勧めで楚王の末裔である心を探し出し、これを傀儡の王として擁立した。
張良はそこで項梁に進言した。
「あなたはすでに楚の子孫を立てられ、天下に大義を示されました。
ところで韓の王族のうち、横陽君の成がもっともすぐれておられます。
彼を立てて韓王とし、味方を増やされるのがようでしょう。」
項梁はもっともな意見だと思い、張良に命じて韓成を探し出させ、彼を立てて韓王とした。
張良はその申徒(宰相)となった。これで四代続いて韓王の宰相となった。
が、韓王といっても領土は無い。秦から奪うのだ。
張良は韓成とともに千余人を率いて韓の旧領を攻略し、数城を落とした。
秦軍はこれを聞くとすぐさま韓を攻撃し、張良はすべての城を失った。
兵数ではかなわないことが判ると張良は方針を変え、
勝手を知った韓の旧領を神出鬼没に蚕食し荒らしまわり、秦軍を翻弄した。
この間、劉邦は咸陽に向かって進撃していたが、その足取りは怪しく、勝ったり負けたりしていた。
そこで張良は劉邦と合流して補佐し、韓の故地を攻略させ、秦の名将楊熊の軍を撃破した。
劉邦は韓成に命じて、占領した韓の地を守らせ、張良とともに南進した。
劉邦軍は韓を落とした勢いで大都会南陽を攻めた。ここの太守は といった(姓不詳)。
は野戦で劉邦に負け、宛に逃げ込んだ。劉邦はこれを再起不能とみて、無視しようとした。
すると、張良が諌めた。
「沛公は咸陽を攻めることを急いでおられますが、秦兵はまだ強大であり、
なおかつ要害に立てこもっております。
秦兵でてこずっているときに背後の宛から出撃されると挟み撃ちされる格好となり、
非常に危険です。今のうちに宛を降しておきましょう。」
劉邦はこれを素直に聞き入れ、夜明け前には引き返して宛を厳重に包囲した。
は絶望し、自殺しようとしたが、家臣の陳恢(ちんかい)に止められた。
陳恢は主人の為に城壁を乗り越えて劉邦に会見を申し込んだ。
そして、宛が無血降伏する旨を伝えた。
「私は、あなたがたのうち最もはやく咸陽を陥れた者が関中の王になると聞きました。
しかし、あなたは留まって宛を攻められます。
宛には郡県が数十あり、降伏すれば皆殺しにされると思い込んでいます。
だからみな城に籠って固守しているのです。
あなたが踏みとどまってこの城を攻めるのならば、死傷する兵士が多くでましょう。
逆に、このまま宛を去られても、宛の兵は必ずあなたの軍を追撃するでしょう。
そうなれば、あなたは前方で秦の守備兵と対峙し、後方では強い宛の兵と対峙することとなり、
「咸陽に真っ先に入った者をその地の王とする。」という懐王との盟約を果たせなくなるでしょう。
今、あなたの為に計りますに、
互いに約束して宛を降伏を許し、その守である に宛を守らせればよいかと思います。
宛の兵の大部分をあなたが率いてゆけば、万が一背後から襲われることはありません。
そうすれば、この先々の諸城も門を開いてあなたを待ち、通行に困ることはないでしょう。」
劉邦はこれを聞いて感心し、張良に是非を諮った。張良はこれを信じたほうがよいとの意見で、
劉邦はさっそく南陽太守 を殷侯に任じ、陳恢を千戸の邑に封じた。
陳恢が言った通り、その後、大きな抵抗を喰らうこともなく、劉邦軍は秦国境の武関を突破し、
ついに咸陽に迫る嶢関(ぎょうかん)に到達した。
この時、秦国内では政治を壟断していた宦官趙高が三世子嬰によって殺されており、
子嬰は武関を突破されたことを知り、兵を嶢関に急行させていた。(ここは漢書の記載を採用。史記と食い違っている。)
劉邦はこの意気盛んな秦兵と戦わなければならなかった。
しかも劉邦軍はたった二万しか兵がいない。
今まで二万の兵で勝ってきたのは、張良に負うところが大きかったのだ。
しかし劉邦は今の自軍の勢いでもって嶢関を攻めれば、簡単に落とすことができると考えていた。
が、張良一人だけは異を唱えた。
「秦を侮ってはいけません。いまだに強大な力を持っていますので、攻めてはいけません。
わたくしが聞いているところでは、嶢関の守将は屠殺業者の出だということです。
商売人は利益に動かされやすいものです。彼に利を食らわせれば、簡単に降伏するでしょう。
どうか、沛公は陣営を堅く守り、じっとしていてください。
そして、密かに五万人分の兵糧を用意し、山上に旗さしものをたくさん立てて見せ掛けの軍にし、
嶢関に無言の圧力をかけるのです。
そうしておいて 食其と陸賈に高価な財物を持たせて派遣し、説得するのです。
きっと守将は利益に目が眩み、簡単に秦に背くでしょう。」
劉邦は、張良の進言を全面的に信頼していたので、すぐさま進言通りにした。
果たして守将は秦に叛き、連合して一緒に咸陽を攻めようとまで言った。
劉邦は彼を許し、共に咸陽を攻めようとした。
それを見て張良は諌めた。
「今、叛いたのは嶢関の守将だけで、その兵は叛いてはおりません。
兵はまだ秦のことを想っており、その兵を率いて戦うのは危険です。
彼らは今油断しており、今こそ嶢関を攻撃するべきです。」
張良は、はじめから騙すつもりだったのだ!
嶢関は友軍だと思っていた劉邦軍に襲撃され、パニックとなり、軍は壊走した。
逃げる兵を追って藍田まで行くと、新たな秦兵と遭遇し、これと会戦し激しく破った。
これで秦軍は事実上壊滅した。劉邦は覇上に駐屯し、咸陽に攻め入る準備をしていた。
紀元前206年、ついに秦の三世子嬰は降伏を決めた。
咸陽の民を戦乱に巻き込ませまいとする配慮からだった。
彼は白馬が牽く素車の乗り、首に紐をかけ、皇帝の璽・符節を函に封じ、劉邦に降伏した。
諸将のうちの一人が、子嬰を殺せと言った。
考えてみれば、後半の秦の政治は暴虐であり人民は疲弊した。
人民の苦労を知っている諸将は、憎しみのあまり殺すべきだと言ったのも分からなくもない。
張良ですらそうだった。幼い頃、故国韓が蹂躙され、多くの人が死んだ。
秦の始皇帝を殺し、帝国を転覆させてやろうと思って失敗し、十年間も追われていた。
その秦の始皇帝の孫が降伏した。
張良も「殺すべし。」と思っていた。
ただ、殺して何になるのか。私怨を晴らしても、そのあとに何が残るのか?
伍子胥(名は員)を見よ。怨恨からは何も生まれない。
それに秦を滅ぼしたからといって、天下は定まったとは言えなかった。
最高実力者の項羽が、未だに咸陽目指して進撃しているし、
項羽が劉邦に秦の地を与えるとは思えなかった。
ならば、秦の民に慕われる政策を敷き、その力を今のうちに劉邦軍に取り入れた方が
良いのではないか・・・。
張良は自分の気持ちを抑え、子嬰を殺してはならぬと自らに言い聞かせた。
劉邦もその張良の思いを察し、言った。
「懐王が咸陽攻撃にワシを選んだのは、ワシのことを寛容であると考えたからだそうだ。
ならば、ワシは子嬰を殺すわけにはいかない。
しかも、子嬰は既に降伏している。これをさらに殺すのは不吉であろう。」
こうして、張良はさらに劉邦軍の方向性を定めていくのである・・・・
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