第十話:「まこと」とは何か


韓信粛清の功績で蕭何は丞相から相国へと昇進した。

そして5000戸を加増し、兵500人と都尉1人を蕭何の護衛として与えた。

多くの同僚がお祝いにやって来たが、平民の召平という人だけは悔みを述べた。
(召平については、以前項梁伝で登場したので詳しくはココで・・・)


召平 「相国。災難はこれから始まるでしょう。

お上は石矢が降りそそぐ戦場にいますから護衛は必要ですが、

あなたは留守番をしていて、護衛もいりません。

それなのに、お上はあなたに護衛を付けました。

これは、あなたの心を疑っているからですぞ。

先に、淮陰侯韓信が都で謀反しようとし、お上は疑い深くなっています。

護衛をつけるのは、あなたを寵愛しているからではありません。

どうか五千戸の加増を辞退し、お受けなさらぬように。

そして家財をすべて投げ出し、お上の軍を援助したならば、

お上の猜疑も解けるでしょう。」

蕭何 「そうですか・・・・。また疑われているのですか。

では召先生のお言葉に従いましょう・・・。」


劉邦は蕭何の処置を非常に喜んだ。



紀元前195年、淮南王黥布が反乱を起こし、荊王劉賈を殺し楚王劉交を潰走させた。

劉邦は黥布の軍事能力を恐ろしさを知っていたので、自ら兵を率いて交戦した。

その間、劉邦は何度も何度も蕭何が何をしているか探らせた。

蕭何は恐れ、以前と同じように家財をすべて投げ出して軍を援助した。

それでも、蕭何の身辺は探られていた。

その有様を見た客(姓名不明)が言った。


「相国が一族皆殺しになるのは間もなくでしょう。

あなたは位人臣を極め、功績は第一です。この上に加えるものはありません。

そしてあなたは関中を治めて十余年、人民は皆あなたに心を寄せています。

お上は、相国が人民を扇動し動揺させるのを恐れて疑っているのです。

かくなるうえは、代金後払いで人民から強引に田畑を買い上げて商人に売り払い、

金貸しのように賤しい行いをし、自分に泥を塗るしかありません。

ご自身の名声を地に堕とさなければ、間違いなく相国は殺されます。」

蕭何 「・・・・・・恐れていた事態になりましたね・・・。

先生の言に従っても、きっと私は殺されるでしょう・・・」


こうして蕭何は悪徳商人になりきり、強引に人民から土地を買い上げ商人に売りさばいた。

劉邦は蕭何の悪行を聞き、密かに喜んだ。



劉邦が黥布討伐を終え長安に帰る途中、住民が道を遮り上訴した。

「賤しいことに、あの相国が強引に民の田畑数千万銭分を買い上げました。

我々は非常に困っております。どうにかしていただけないでしょうか。」

劉邦は都に着くと蕭何を呼び出して責めた。


劉邦 「なんと、相国は民から利益を吸い上げているようだな!

このたくさんの上書を見よ。人民はみな困っているではないか。

自分の目で見るがよい。(文書を手渡す)

君が自分で民に謝れ。」

蕭何 「なるほど、困っておりますな。

では、陛下の御苑を民に開放しなされ。あそこには空き地が多うございます。

空き地には藁も多うございます。取り入れなければ禽獣の餌となるばかりです。

もともと長安の地は狭うございますからな。」

劉邦 「むぅぅ!!今、何と申した?

ワシの御苑を開放しろだろ?!

お前は自分の土地は返そうともせず、商人から財物を受け取り、

挙句の果てにはワシの御苑を要求しおる!

こやつ、許せん!!こやつを引っ立てて牢にブチ込め!!」



蕭何は枷をはめられて拘禁され、牢獄に閉じ込められた。

群臣は恐れ慄き、誰一人として蕭何を弁護する者はいなかった・・・。



数日後、劉邦に近侍していた衛尉(宮殿各門の護衛兵を率いる長官)の王(名は不詳)が劉邦に質問した。


王衛尉 「相国にはどのような大罪があったのでしょうか。

陛下は急に相国を投獄されましたが・・・。」

劉邦 「秦の丞相だった李斯は、善いことはすべて皇帝に譲り、

悪があればすべて自分の責任にしたという。

今、相国は商売人から多額の金を受け取っておきながら、

人民の為に御苑を開放しろと言う。

これでは民にへつらっているうえに偽善ではないか。

投獄して処罰するのが当然だ。」

王衛尉 「人民に利益があれば願い出るのが宰相の仕事です。

御苑の開放を願ったのは、民の利益を考えたからです。

また、陛下は蕭相国が商人から金を受け取り田畑を売り払ったことを責めますが、

はたして相国の汚職と言えるのでしょうか。

先年、陛下は項羽・陳・黥布らを懲らしめるために、自ら兵を率いて出向われました。

そのようなときはいつも蕭相国は留守を任され、謹厳に務めを果たして来ました。

しかし、留守中に相国が利を思って叛乱を起こせば、

函谷関以西は陛下のものではなくなったでしょう。

相国はその時を利益としなかったのに、今となって商人の金を利益としましょうか?

陛下はなぜ蕭相国をお疑いになるのです。」


劉邦は黙り込んだ。


賤しかったのは自分の方だったことを、厭というほど思い知らされた。

誠実な蕭何を疑い疑って追い詰めたのは自分ではなかったのか、と・・・・・・。


劉邦は蕭何を釈放した。



蕭何は裸足のまま参内し、叩頭して劉邦に陳謝した。

劉邦は自分の行いを羞じ、顔をそむけて言った。


「相国、やめなさい。ワシは桀や紂と同じ暴君に過ぎないが、相国は賢人だ。

だからワシは相国を投獄し、人民どもにワシの過失を聞かせようとしたのだ。」



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その後、暫くして劉邦は死んだ。

遺言に曰く、「ワシの死後は蕭何に任せよ。」


そして、その蕭何も劉邦の死の二年後、亡くなった。



蕭何が死の床についた時、恵帝が病床を見舞った。

恵帝が後継者は誰にすればよいか訪ねると、蕭何は言った。

「曹参を私の後任にしていただけるなら、臣は死んでも思い残すことはありません。」

蕭何は曹参と非常に仲が悪かったが、公私混同せずその人柄は人々に讃えられた。



蕭何は常に貧しい場所に家を建て、塀も修築しなかった。

彼は生前、こう言っていたという。

「私の子孫が賢者であれば、私の質素を手本とするだろう。

賢者でなくても、権力者に奪われる心配は無いだろう。」



司馬遷は蕭何をこう讃えている。


「蕭相国は、秦の時代にあっては文書を扱う小役人に過ぎず、

平凡で特別秀れた行いはなかった。

しかし漢が興ると高祖に従い、謹み深く留守役を務め、

秦に対する憎悪を利用し、その流れに従って新しい時代を切り開いた。

淮陰侯韓信・淮南王黥布らがみな誅殺されたのに対して、

蕭何の功績は光り輝き、地位は群臣の上に置かれ、名声は後世にまで流れ、

周の功臣たちと肩を並べることとなった。」




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