附記:蕭家、その後


恵帝2年、蕭何が死んだ。おくりなは文終侯であった。

蕭何の墓は、劉邦の墓である長陵のすぐ近くにあったという。

また、曹参の墓とも近かったという。


子の蕭禄が跡を継いだが、6年して死んだ。おくりなは哀侯。


蕭禄には男子の跡継ぎが無く、危うく侯は断絶するところだったが、

呂后は禄の弟の蕭同(注@)を取立てて跡継ぎとした。

また、蕭何の末子である蕭延を築陽侯(注A)に抜擢した。

注@:『史記』高祖功臣侯者年表第六では、蕭同は蕭禄の弟とされているが

『漢書』高惠高后文功臣表第四では、蕭同は蕭何の妻となっている。

スゴイ食い違いだが、どっちが正しいかは不明・・・。


注A:『漢書』高惠高后文功臣表第四では筑陽侯と表記されている。


文帝元年、蕭同に罪があり、侯は蕭延へと受け継がれた。

蕭延は2年して死に、定侯とおくりなされた。


蕭延の子、蕭遺が跡を継ぎ、1年して死んだ。おくりなは煬侯。


蕭遺には子が無く、文帝は遺の弟蕭則侯を継がせた。

蕭則は20年後に罪があって国を除かれ、侯は一時断絶した。

『漢書』高惠高后文功臣表第四によると、

このときの侯は2万6000戸を領有する大領主であった。



景帝2年、帝は詔を下して言った。

「死んだ相国蕭何は高皇帝(劉邦)の大功臣であり、倶に天下を治めた者である。

今、その祭祀が絶えたことを朕はとても憐れに思う。

それゆえ、蕭何の孫、蕭嘉を2000戸の武陽侯にし、祭祀を継がせようと思う。」

こうして蕭則の弟、蕭嘉は武陽侯となった。

蕭嘉は7年後に死んだ。


蕭嘉の子、蕭勝が跡を継いだが、21年して罪を得て国を除かれた。



元狩3年、武帝は詔を下して言った。

「死んだ蕭相国の徳に報いることを天下にはっきりと知らせるために、

の2400戸をもって蕭何の曾孫蕭慶を封じて侯とする。」

こうして蕭則の子、蕭慶侯となった。

三年して死に、共侯とおくりなされた。


蕭慶の子、蕭寿成が跡を継いだが、10年して罪を得て国を除かれた。

再び侯は断絶した。



元康元年、宣帝は蕭何の子孫を探させたところ、12人を得たので、

再び2000戸の侯を復活させ、蕭何の玄孫蕭建世侯にした。

14年して蕭建世は死に、安侯とおくりなされた。


子の蕭輔侯を継ぎ、死ぬと思侯とおくりなされた。


蕭輔の子、蕭獲が跡を継いだが、罪を得て侯は三度断絶した。



永始元年7月、成帝は蕭何の子孫を探させ、玄孫の蕭喜を封じて侯にした。

三年して死に、釐侯とおくりなされた。


蕭喜の子、蕭尊が継ぎ、五年して死んだ。おくりなは質侯。


蕭尊の子の蕭章が継ぎ、13年して死んだ。おくりなは質侯。(父と同じ?)



王莽が仮皇帝となった居摂元年(前漢滅亡二年前)、蕭尊の子、蕭禹侯を継いだ。

前漢が王莽に乗っ取られ、「新」が建国されると侯は郷侯と改名された。

王莽が滅亡すると侯も自動的に消滅し、四度目の断絶を迎えた。



後漢の永平二年、二代皇帝の明帝は、蕭何の功績を讃えて

蕭何の墓に使者を遣わせて、蕭何の霊を祀らせた。

三代皇帝章帝も建初七年の冬、蕭何の墓を祀らせている。


そして、ついに永元三年の11月、

和帝は大鴻臚(官名)に蕭何の子孫を探させ、これに土地を与えたという。



蕭何の功績は前漢・後漢を通じて光り輝き、その余徳は子孫にまで及んだ。

ここに蕭何の功績を賛え、この伝の結びとしたい。


蕭家系図(史記を元に)




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