第十話:豈非天哉!



元狩四年(BC119年)、春と夏に彗星が現れた。

人々は不吉なものとして兵乱を恐れた。


同年、武帝は大将軍衛青・驃騎将軍霍去病に匈奴に攻め込むことを命じた。

李広には声が掛からなかったが武帝に出撃を請うた。

武帝は李広が六十を越えた老齢であり、また不運な将軍なので許可しなかった。

しかし李広が度々出撃を要請するので、前将軍とし出撃を許可した。

武帝は李広の不運を知っており、大将軍衛青に「李広は不運に付きまとわれている。

単于に当たらせてはいけない。恐らく失敗するであろう。」と耳打ちした。


武帝は単于が東方に移動したとの情報を得ており、

お気に入りの霍去病に功を立てさせる為、精兵を与えて東寄りの代郡より出撃させ、

衛青を西寄りの定襄郡より出撃させた。

李広は衛青の下に付けられ、李広の子、敢は校尉として霍去病に従って出撃した。

衛青は対匈奴戦の老練であり、国境を越えると匈奴兵を捕虜とし

すぐに単于の居場所を知った。

単于は東方に移動しておらず、衛青軍の方が単于に近かったのだ。


衛青には、四将(前将軍李広・左将軍公孫敖・右将軍趙食其・後将軍曹襄(曹参の曾孫))が

付けられていた。

左将軍公孫敖は衛青の旧友で、かつて衛青の危機を救ったことがあった。

ともに武帝に仕え昇進し列侯となったが、公孫敖は罪を犯して列侯の身分を失っていた。

衛青は公孫敖に武功を立てさせるべく、共に単于に当たりたいと考えていた。

しかも武帝から李広外しの指示もあり、李広と趙食其は主戦場から外される運命にあった。

衛青は、李広は趙食其の兵と合流し東のルートを取るように指示した。

李広も対匈奴戦では老練であり、東の道の方が距離があり水も草も乏しいのを知っていた。

さらに公孫敖と衛青の経緯も知っているため、従わずに言った。

「臣は前将軍の部署であるはず。なぜ今になって東方の道へ移されるのか。

臣は結髪して以来匈奴と戦ってきました。

どうか臣を前衛としてください。命をなげうって単于を生け捕りにする所存です。」

衛青は聞き入れず、書簡でもって拒否した。

「前将軍はただちに部署につき、指示通りにされよ。」

李広は怒り、衛青に挨拶もせずに出発した。

怒りを抑えきれずに進軍し、趙食其と合流し東の道を進んだ。

が、道に迷った。


衛青と公孫敖はまっすぐに砂漠を越えて進軍し、単于の本隊と接触した。

天候にも助けられ匈奴兵を散々に打ち破り、単于が十数日行方不明となったほどであった。

衛青らは一万以上の匈奴兵を捕斬し、さらに進撃して匈奴の食料貯蔵庫を陥れ、

これを漢兵に食わせ、残りを焼き払い帰還した。

衛青の軍が南下し、砂漠を越えた頃にようやく李広・趙食其の兵と出合った。


衛青は李広・趙食其と会見し遅参した報告を受けた。

衛青は李広らを帰すと、長史に濁酒を持たせ李広を訪ねさせ労った。

そのついでに長史に李広らが道に迷った状況を聞かせた。

「大将軍は、軍が道に迷ったことの詳細を天子に報告しなければいけないのです。」

李広はこれを聞いたが、黙したままであった。

長史は急き立て、李広を衛青の幕府に連れて行こうとした。

李広は、「部下の校尉達には罪は無く、私自身が道を誤ったのだ。

私が今すぐに文書を提出する。」と言い自分の幕府に引っ込んだ。


李広は部下を集めて言った。

「私は結髪してから匈奴と七十戦以上。

今回、幸いにも大将軍に従って出撃し、単于を虜にするつもりでいた。

しかし大将軍は私の部署を遠くへ移し、しかも私は道に迷い遅参してしまった。

天命であろう。

私は齢六十余。

いまさら刀筆の俗吏の取調べに応ずることもできぬ。」

言い終わると刀を抜き放ち、首をかき切った。

一軍、李広が自刎したと聞き泣き崩れ、知るも知らぬも人々はみな涙を流した。

右将軍趙食其だけが役人に引き渡された。死罪となったが金で罪を贖った。


霍去病に従っていた息子の李敢は、単于の左賢王と遭遇した。

敢は副将に任じられ、力戦して左賢王の軍旗・軍鼓を奪い戦功抜群であった。

捕斬した匈奴兵は、単于と戦った衛青のものよりも多かった。

父の死は帰還途中に聞かされたであろう。

都へ戻ると、関内侯の爵と二百戸の食邑を賜った。

そして亡父に代わって郎中令に任ぜられた。






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