曹参が死んだ後、息子の曹(そうちゅつ)が平陽侯を継いだ。 彼は呂后専制の間、御史大夫(ぎょしたいふ:副総理)の任務に当たっていた。 呂后が病死し、クーデタが起こり呂一族が皆殺しにされると、 曹は御史大夫をクビになり、無官の侯となってしまった。 彼は偉大なる父・曹参の後を継いでから29年して亡くなった。紀元前161年のことだった。 曹の息子の曹奇(そうき)が平陽侯を継いだが、7年で亡くなった。 曹奇の息子の曹時(そうじ)が平陽侯を継いだ。 彼は武帝の姉の平陽公主(へいようこうしゅ)と結婚し、子の曹襄(そうじょう)を授かった。 しかし不幸にも曹時はライ病に罹ってしまい、妻に離縁され国に帰らざるを得なかった。 妻であった平陽公主は後に軍部の大スターの衛青(えいせい)と再婚している。 曹時は領国で療養し、紀元前131年に亡くなった。 息子の曹襄が平陽侯を継ぎ、武帝の娘・衛長公主(えいちょうこうしゅ)と結婚した。 二人の間には曹宋(そうそう)が生まれた。 曹襄は平陽侯を継いでから16年で亡くなった。紀元前115年のことだった。 子の曹宋が後を継いだが、 武帝の皇太子の刑死に連座して平陽侯の爵位と土地は取り上げられ、 代々続いてきた平陽侯は途絶えた。このとき平陽侯は23000戸を所有する大領主であった。 しかし、曹参の功績を思う宣帝が曹参の玄孫の孫にあたる曹喜を平陽侯に取り立てた。 曹参から始まる平陽侯は三国鼎立時代のときまで代々侯位を伝えた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 劉一族による漢帝国は衰え、新しい時代が訪れた。曹参の末裔に、曹操(そうそう)という小柄な男がいた。 (曹操の父が曹家の養子となっており、直接の血族ではない。詳しくは夏侯嬰の子孫を参照してください。) 彼は同じく前漢の功臣・夏侯嬰の末裔たちと協力し、乱世を定めるべく立ち上がり、 ついに、天下の2/3を平定し、魏王の位に上りつめ、死んだ。 息子の曹丕(そうひ)は後漢の献帝から帝位を奪い、魏を建国した。 曹丕は若干40歳で死に、息子の曹叡(そうえい)が帝位を継いだ。 曹叡は蜀の諸葛亮の侵略に悩まされながらも、魏国を何とか切り盛りし、若くして死んだ。 その後幼帝が続き、司馬一族に実権を握られ、遂に、司馬炎(しばえん)によって帝位は簒奪されてしまった。 司馬炎は、楚に属し多大な軍功を立て殷王(いんおう)に任じられ、 後に劉邦に降伏し河内郡に領地を貰った司馬の末裔である。 |