附記:夏侯嬰の子孫たち


夏侯嬰は一生涯を太僕として過し、紀元前172年に亡くなった。

子の夏侯竈が汝陰侯を継ぎ、7年して亡くなった。


夏侯竈の墓は、1977年安徽省阜陽県で土地整理作業中に見つかった。

この墓は、墓の上に盛った土に二つの頂上があるので「双古堆」と名づけられた。

墓は盗掘されていたが、出土した漆器・銅器に「汝陰侯」の銘文があり夏侯竈の墓と判明した。

先にも述べたが、この墓には二つの頂上がある。

実はその二つのふくらみは、夏侯竈とその妻を表している。

仲良く合葬されていたのだ。

さらに、この墓には日本も関係があったりする。

日本が中国に戦争を仕掛けた際、抗日戦線の塹壕建設によって墓道が破壊されていたのだ・・・。


夏侯竈が死ぬと、子の夏侯賜があとを継いだ。

彼は13年して死に、子の夏侯頗があとを継いだ。夏侯頗は、武帝の姉を娶った。

しかし、父親の愛人と姦通し、罪を問われるのを恐れて自殺した。

夏侯嬰以来、代々続いてきた汝陰侯の爵位とその土地は没収され、家名は消えた。

しかし宣帝の時代に夏侯嬰の玄孫の子・夏侯信が家名再興を許された。


その後、前漢は王莽(おうもう)に乗っ取られ、いったん滅亡するが、

光武帝が再興し、後漢を建国した。

しかし後漢末期になるとお決まりのように幼帝が続き、外戚・宦官が跋扈するようになる。

そんな中、夏侯嬰の子孫が登場する。

彼の名は曹嵩。夏侯姓でないは、彼が曹家の養子に入ったからである。

曹家は曹参の末裔であり名門であったが、曹騰が宦官になってしまったために子どもがおらず、

嵩は夏侯家から曹騰の養子にはいったのだ。


曹嵩には曹操という子が生まれた。

この麒麟児・曹操が実家の夏侯家と連合し、歴史を激変させるのである。

曹操は、全く実力を失った劉氏の天下を奪った。


夏侯嬰は地下で何を思っていただろうか・・・


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