第七話:隠棲



李広らが罪に服したときの武帝の詔が残っている。

「夷狄無義、所從來久。
匈奴等が大義名分無く侵入すること、由来は久しい。

間者匈奴數寇邊境、故遣將撫師。
最近、匈奴が度々辺境に被害を与えるので、将軍を遣わし軍を落ち着かせた。

古者治兵振旅、因遭虜之方入、將吏新會、上下未輯、
昔は普段から兵を訓練し整備していたが、今は匈奴等が侵入してから将軍や軍吏が集まる為、皆が和合しない。

代郡將軍敖、雁門將軍廣所任不肖、校尉又背義妄行、棄軍而北、少吏犯禁。
代郡から出撃した将軍公孫敖、雁門から出た将軍李広は任に堪えず不才であり、
また校尉は道義に背き行動は濫りであり、軍を捨てて逃げ、その下の役人達は禁を犯した。

用兵之法、不勤不教、將率之過也、
用兵の規律を守らず、部下に教えないのは、将軍の罪である。

教令宣明、不能盡力、士卒之罪也。
命令が明確であるのに、力を尽さないのは士卒の罪である。

將軍已下廷尉、使理正之、 而又加法於士卒、二者並行、非仁聖之心。
将軍達はすでに廷尉に下げ渡し、法にてらし処罰した。
しかし、また法を士卒に加え、処罰を両方に加えるのは、仁聖なる皇帝の本意ではない。

(中略)

其赦雁門、代郡軍士不循法者。」
雁門・代郡の軍士で法に触れた者を赦す。


後年、公孫賀が丞相に任命されたときに泣いて任を断った理由が理解できる詔である。
ちなみに武帝は公孫賀をむりやり丞相に据えた。賀は十数年間丞相を勤めたが、遂に獄死した。
また、秦始皇帝に仕えた王翦が独裁者に仕える難しさを述懐しているが、武帝にも同じ事が言えるだろう。





平民となった李広は、元の潁陰侯灌彊灌嬰の孫、罪があり潁陰侯を免ぜられた)と共に

藍田の南の山中に数年間隠棲した。

この時、李広は五十歳前後であったと思われる。

生涯趣味とした狩猟をして無聊を慰めた。

李広には著作があり、「李将軍射法」三篇(現在は散逸)が漢書芸文志に載っているが、

藍田に隠棲しているときに練ったのもであろうか。


ある時、李広は従者一人と藍田から下り客人と野外で酒を飲んだ。

客と別れて藍田に帰るうちに夜になってしまい、霸陵(文帝が埋葬された)亭まで来ると

霸陵尉(県内の警察・治安を司る)が李広主従を叱りつけて通行を許可しなかった。尉は酔っていた。

従者が「元の李将軍ですぞ。」とたしなめたが、

尉は「現行の将軍ですら夜歩きは許されないのに、退職将軍が許されると思っているのか!」

と侮辱し、李広主従を亭内に拘留した。






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