第六話:當斬、贖為庶人



元光二年(BC133)六月、武帝は度重なる匈奴の侵攻を止めようと、

単于を馬邑におびき出し三十万の兵で一挙に匈奴を殲滅しようと計を立てた。

王恢の発案だというが、武帝の腹案を受けたものであろう。

これはどう見ても一か八かの博打であった。


李広は驍騎将軍として護軍将軍韓安国に属して出撃した。

匈奴は長城を越えてから漢の計略に気づき、撤退した。

武帝は賭けに負けた。

李広をはじめ諸将軍は功無く、立案者の王恢は処刑された。

この計略の失敗により、連年辺境は匈奴に悩まされることとなった。


元光六年(BC129)、匈奴が大挙して上谷郡に侵入し、殺害略奪を行った。

武帝は四将にそれぞれ一万騎を与え、車騎将軍衛青は上谷郡から、

騎将軍公孫敖は代郡から、軽車将軍公孫賀は雲中郡から、

驍騎将軍李広は雁門郡から出撃した。


衛青は龍城(単于が天を祭る土地)まで進撃し、七百余の首と多数の捕虜を得た。

公孫賀は敵と遭遇せず、公孫敖は匈奴に打ち破られ七千人余を失った。

李広は数倍の匈奴軍と当たり、李広軍は散り散りとなり李広は負傷し生け捕りとなった。

単于は李広を知っており、李広を捕らえたならば殺さず生け捕りにしろと命じていたからである。

匈奴兵は李広の負傷を見て、二匹の馬の間に綱を張り巡らせその上に李広を寝かせた。

十余里を進んだ頃、李広は死んだふりをしながら周囲を窺っていると、

良馬に乗っている子供がおり、弓矢を持っていた。

李広は躍り上がってその子供を突き落とし武器を奪い、馬に鞭打ち南に向かって逃走した。

驚いた匈奴数百騎が追跡したが、李広は振り向き振り向き近づいてくる匈奴兵を射殺した為

遂に追跡を諦め、数十里馳せたところで李広は漢の部隊に追いついた。


論功行賞で武帝は衛青を関内侯とし、公孫敖と李広は死罪と決まった。

真に李広を知っていたのは、単于の方であった。

公孫敖と李広は罪を金で贖い、庶民に落とされた。

李広は蓄財に疎く、恩賞は部下に分け与え家に余財は無かったと記されているので、

この銭による贖罪は不可能と思われる。

恐らく李広を慕う権力者や有力者が金を融通したのであろう。


この後、匈奴はしきりと辺境を侵すこととなる。





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