第十二話:楚王韓信


紀元前202年、劉邦は帝位についた。

そして、彭越を梁王、韓王信を韓王、呉ぜいを長沙王、黥布を淮南王、臧荼を燕王、張敖を趙王

に正式に任命した。

韓信は斉王であったが、斉の地を取り上げられた。

「義帝(懐王のこと)には跡継ぎがいない。斉王韓信は、楚の風俗に習熟している。」

との理由で、楚の地を与えられ楚王となった。首都は下ひに定められた。

約束は反古にされた。


韓信は領国に着くと、昔食事をくれた絹布を水にさらしていた婆さんを探し出し、千金を与えた。

また、途中で寄食されるのが嫌になって韓信に食を与えなかった南昌の亭長を探し出し、

百銭だけを与えて言った。

「あなたは心の狭い人だ。人に目をかけたのに、最後まで面倒を見てやることが出来なかった。」


そして、股くぐりをさせて自分に恥をかかせたあの屠殺業者の若者を召し出した。

その若者は、自分のやったことの不味さをわかっていたので、殺されると思ってブルブル震えていた。

しかし、韓信はその若者に言った。

「お前を楚の中尉に任命する。

皆も聞いておけ。こいつは立派な男だ。

私はこの男の股をくぐらされたが、その時私はこの男を殺すことは出来た。

しかし、この男を殺したところで名はあがらない。私は我慢して、これまでに名をあげたのだ。」


韓信は、軍を奪われたこともあり、劉邦に警戒されていると判っていた。

韓信は楚の県や邑を視察した際、軍隊をひき連れて隊形を組んで行動した。

また、項羽の有力な将軍であった鍾離眛の実家は伊廬にあり、昔から韓信と親しかったので、

項羽が負けた時、逃亡して韓信を頼った。

劉邦は鍾離眛が韓信に匿われているらしいと聞くと、楚に鍾離眛を逮捕せよと勅令をだした。

項羽との戦いで、鍾離眛には散々苦しめられたからである。

しかし、韓信は鍾離眛を庇い続けた。


紀元前201年、韓信が謀反したと密告した者があった。

劉邦は陳平の計略を用い、雲夢に巡遊すると称して陳に諸侯を呼び寄せた。

この計略は、韓信逮捕のみが目的だった。


韓信ははじめ、この計略に気付かなかった。

しかし、劉邦が陳に着く頃になって疑心暗鬼に陥り、兵を挙げて背こうかと考えだした。

一方、自分には大功があり、何も罪はないと思ったが、逮捕される可能性もあった。

韓信は酷く不安に思い、左右の者に相談した。

すると、ある者が言った。

「鍾離眛の首を斬り、それを持って陛下にお目通りしなされ。

陛下はきっとお喜びになり、心配はないでしょう。」


韓信は、不安が昂じてこれを鍾離眛に相談してしまった。

親友であったのに・・・



伊廬 伊廬という地名は、漢代では滅び『漢書』地理志でも消えている。

しかし、『括地志』という書には次のような記事がある。

「中廬県は、義清県の北20里にある。元々、春秋時代には廬戎の国であった。

秦の時代、ここを伊盧と呼んだ。漢代には中廬と呼ばれた。

この県には項羽の武将であった鍾離眛の墳墓がある。」


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