劉邦と項羽は広武の谷を隔てて、対陣した。 しかし、項羽の本国はがら空きで、彭越・田横らに糧道を荒らされて兵糧が尽き、 また韓信は西楚の北部国境に圧力をかけ、楚の軍をしばしば破った。 このような劣勢だったので、項羽は憂慮して劉邦と盟約を結び、 鴻溝を境にして、天下を二分することにした。 しかし劉邦はこの盟約を破り、項羽を追撃した。 韓信と彭越と軍を合わせて攻撃するつもりであったが、両人はやってこぬまま激戦となり。 劉邦は打ち破られ、固陵で篭城となってしまった。 劉邦は切羽詰ったが、張良の策略を用いて韓信・彭越を呼び寄せた。 韓信は集結した三十余万の漢兵の全指揮を任された。 韓信は勇み、兵を率いて項羽に戦いを挑んだ。 しかしあえなく項羽に先陣を打ち破られ、韓信は退却した。 楚軍は韓信を追撃したが、左右から挟撃され、韓信も反転して攻撃に転じた為、旗色が悪くなった。 ここで韓信は徹底的に楚軍を破り、楚軍は甚大な被害をだしながら自陣へ退いた。 楚軍は、漢陣から楚歌が聞こえてくることに気づき、 故郷がことごとく漢に奪われたと思い、一気に戦意を失った。 項羽は逃げ、灌嬰が追った。灌嬰は八万の楚兵を殺し、楚軍は壊滅。項羽は烏江で自殺した。 楚の地はすべて平定されたが、魯だけは降らなかった。 劉邦は、韓信とともに魯を囲んだが、降る気配はなく、攻城戦は長引きそうであった。 魯は孔子の故郷でもあり、義を守り節に死す気概を持った人が多かった。 それゆえ劉邦は、項羽の首を魯に送った。魯は降り、項羽に魯公の称号を送って穀城に葬った。 劉邦は項羽の墓前で泣いた。 魯からの帰還途中、定陶で劉邦は突然韓信の軍営に馳せ入り、韓信の軍をすべて取り上げた。 これで二回目である。 斉王韓信の前途には暗雲が垂れ込めていた・・・ |