張蒼は死罪を赦された後、劉邦に従って咸陽を落とし漢中へ入った。 咸陽へ引き返し三秦を平定すると、陳余に追われた張耳が漢へ投降してきた。 劉邦は張蒼を常山郡郡守とし、張耳と共に韓信の下につけて陳余を討伐させた。 韓信の独創的戦術により陳余は惨敗し、張蒼の軍が陳余を捕らえた。 張蒼も韓信を軽視していた一人だと思われるが(韓信伝参照)、この戦いで見直したに違いない。 この戦のあと、趙王には張耳が封じられ、代は代郡とされ張蒼が相に任命された。 代は匈奴と国境を接しており、張蒼は匈奴の侵寇に備えた。 しばらくして趙王張耳の相となり、項羽が滅亡した年に張耳が死ぬと そのまま息子の張敖の相となった。 再び遷って代の相となり、燕王臧荼が謀反を起こすと代の軍を率いて臧荼を攻め軍功があった。 封ぜられて北平侯となり、列侯での位次は六十五位(ちょうど真ん中あたり)、食邑は千二百戸であった。 |