北平侯に封ぜられた後、張蒼は計相に任じられた。約一ヶ月で主計と名称が改められた。 張蒼は秦代に柱下御史を勤めており、図書・財政帳簿に通じまた算・暦法や音律に詳しかった為、 列侯の身分のまま蕭何の下、丞相府で天下の郡県の年間収支を司らせた。 当時の公卿はみな軍吏であったからだ。 張蒼は主計の席に四年いた。 淮南王英布が反乱し滅びると、劉邦は末子の劉長を淮南王に封じ、張蒼を宰相とした。 十六年の後、再び中央に召され曹 ![]() 張蒼は周勃らと文帝を迎え入れ、文帝四年には灌嬰に代わって丞相となった。 張蒼は丞相の座に就くと主計の頃から行っていた漢の音律・暦法・算法の制定を推し進めた。 音律では、十二音律を決める笛を吹いて音楽を整え、宮・商・角・徴・羽の五音声に配当した。 さらに法律条例をこの音律になぞらえて定めた。 暦法では、劉邦が覇上に到着した十月を尊重し年初めを十月とし、 秦の ![]() ![]() 五行の徳の運行を推し量り、漢は水徳に当たるとし秦と同じく黒色を尊重した。 算法では、度量衡の基準を定め、天下の規則となるものを作った。 度量衡の統一は始皇帝に次ぐものであったと思われる。 後世、漢の音・暦・算を学ぶものは皆、張蒼を拠り所としたのである。 |