文帝が死ぬと、張釈之は仮病を使って出仕しなくなった。 かつて張釈之は太子だった景帝を弾劾したことがあり、その報復を恐れたのである。 張釈之は、官職を離れて帰郷しようものならば極刑が下されるのではないかと心配し、 かといって今からお詫びしようにもどうすればよいのか分からなかった。 悩んでいると、師事していた王先生が景帝に拝謁し謝罪することを勧めた。 張釈之は景帝に拝謁し、お詫びを言上した。景帝は特に咎めなかった。 景帝に仕えて一年すると、淮南王劉安の丞相として外へ出された。 この左遷はやはり報復人事であると思われた。 景帝三年、呉楚七国の乱が起きると淮南王は謀反の誘いに乗ろうとした。 しかし張釈之は軍権を握り、王を諭して出兵させなかった。 その後、張釈之は世を去った。 子の張摯(字は長公)は大夫の官まで昇進したが、免職となった。 節を曲げてまで世に受け入れられようとは思わず、その後は生涯仕官しなかった。 |