その後、張釈之は中郎将に昇った。 ある時、文帝のお供をして覇陵(文帝の陵墓。生前に造成される)へ行った。 覇陵は高く険しく作ってあり、文帝の一団は北側の崖に立った。 この時、文帝の寵愛を受けていた慎夫人も同行していた。慎氏についてはこちらを参照 慎夫人の郷里は邯鄲であり、それを思い出した文帝が新豊へ向かう道を指差して言った。 「これが邯鄲に通じる道だよ。」 それから慎夫人に瑟(25弦楽器)を弾かせ、文帝は音楽に合わせて歌った。 文帝の歌は悲哀に満ちていた。我が墓の上で歌う自らの姿に感じるものがあったのだろう。 文帝は群臣を振り返って言った。 「北山(長安の北にあり美石を産出する)の美石でわしの棺を作り、 麻や綿を刻んで間に詰め、漆でその隙間を固めておけば、 わしの体や装飾品を動かすことはできないだろうな。」 臣下たちは皆、文帝の意見の賛同したが、張釈之は進み出て言った。 「その棺の中に宝石など人の欲しがるものを入れれば、 たとえ終南山(長安南郊にある高く険しい山)に埋葬しても穴を掘られてしまうでしょう。 棺の中に人の欲しがるものをいれなければ、美石の棺がなくても何の心配もないでしょう。」 これを聞いて文帝は「良い意見だ。」と張釈之を褒めた。 その後、文帝は張釈之を廷尉(九卿の一つ。法律を司る)に任命した。 |