第五話:堂邑侯


陳嬰は懐王と共にく台に留め置かれた。

陳嬰を慕って集まった人々と陳嬰を切り離すためであったのだろうか。



中略(^-^;;



その後劉邦が秦を滅ぼし漢王に封じられ、項羽が西楚の覇王となった。

項羽は親族の項佗という者を西楚の上柱国とした。

陳嬰がその時どうなったかは書いていないが、義帝として長沙に追いやられた懐王心に

ついていったのか、別に侯に封じられて外に出たのか・・・。

叔孫通が義帝に従わなかったのを見ると、陳嬰もまた項羽の下に留まったのかもしれない。


上柱国に任命されてから四年目、楚漢は争い項羽は敗死した。

西楚の都、彭城は灌嬰らによって落城。陳嬰らは降服した。

劉邦は彼らを殺さなかった。


のち陳嬰は劉邦の命で豫章郡を平定し、王を名乗っていた壯息という者を討伐しこれを平らげた。

この功績をもって故郷近くの堂邑県に封じられた。六百戸、位は八十六番目。

六百戸とはいえ、堂邑は鉄を産出したので県は潤っていたと思われる。



秦・東陽県の名吏であった陳嬰は、項梁、項羽、劉邦、呂后と時の流れに乗り、

高后五年(183年)に亡くなった。

陳嬰の一生を左右した母は、それより先に亡くなったと思われる。

彼女の故郷の臨淮郡潘旌県(東陽の隣県)に葬られたと史記集解は伝える。


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