文君と相如の恋  | 
    
時は景帝の時代。 臨 そう。卓王孫はあの卓氏の子孫である。 また、臨 彼は政府に仕え辞賦をよく創作したが、宮仕えが嫌になって帰郷した。 しかし成都の家に帰ってみると、生活の糧となるものは一つも無い程に家が落ちぶれていた。 彼は臨 臨 彼は毎日、司馬相如のご機嫌伺いに出かけ、非常に恭しい態度をとった。 相如は始めのうちは王吉に会っていたが、段々横柄になり、玄関払いを食わせるようになった。 玄関払いを食らった王吉は、怒るどころか益々恭しい態度をとったので、 「県長さまには高貴な客がいるらしい。」という噂が瞬く間に広がった。 卓王孫は、「宴席を設けて県長さまをお招きし、あわせてそのお客さまも招待しよう。」と考えた。 宴会の当日、卓王孫は何百人もの客を招待した。 正午になって、卓王孫は司馬相如のお出ましを願ったところ、 「病気の為に出られない」とはねつけられてしまった。 臨 相如は、止むを得ず渋々といった感じで屋敷を出た。 司馬相如が卓王孫宅の宴会場に到着すると、人々は相如の容姿の立派さに目を奪われた。 このとき、戸の影から相如のことをコッソリ覗いている一人の女性がいた。 卓王孫の娘、卓文君である。 彼女は十七歳にして未亡人となったが、まだ若かった。 彼女は相如に一目惚れしたのであった・・・。 酒宴が最高潮になったとき、臨 そして恭しく言った。 「司馬長卿さまは、琴がお好きと承っております。 どうか、お楽しみになってください。」 司馬相如は何度か辞退したが、その後何曲か弾いてみせた。 相如の琴の音は、文君の心を揺さぶった。 しかし、文君は「長卿さまのようなお方と、わたくしは到底つりあわないわ…。」と悲観していた。 宴が終わり宿舎へひきあげた後、相如は使いをやり、 卓文君を恋い慕う気持ち綴った手紙を文君の侍女に渡させた。 侍女は驚き、文君に手紙を渡した。 文君は手紙を読み、その夜のうちに卓家を飛び出し着の身着のままで相如のもとへ身を寄せた。 相如はすぐに馬車を走らせ、二人して成都の自宅へ逃げ帰った。駆け落ちである。 成都の相如邸に着いた文君は愕然とした。 「これは家ではない。」と。 相如の自宅は、四方に壁が突っ立っているだけの代物であったからだ。 一方、翌日の朝になって娘の出奔を知った父・卓王孫は激怒していた。 「あの馬鹿娘が! 娘ゆえ殺しはせぬが、銅銭一枚でもくれてやらぬわ!!」 文君は数日経つと、苦しい生活が面白くなくなったので、夫に言った。 「一緒に臨 兄か妹からお金を借りれば、そこそこの生活はおくれますし…。 好きこのんで、貧窮のなかにいることはありませんわ。」 そこで相如は妻と一緒に臨 妻の文君はその飲み屋のママとなり、酒樽の横で客の接待をした。 夫の相如はふんどし一つで下働きの男に混じって働き、臨 父の卓王孫はこの噂を聞きつけ、顔が破裂しそうなほど恥じ入った。 そして、門を閉めきり一切外出しなくなった。 そんな時、卓王孫の兄弟や臨 「文君さんは、もうあの司馬長卿どのの手に落ちてしまったのです。 長卿どのは元々政府に仕えていて、それが嫌になって帰郷したお方ではありませんか。 貧乏ではありますが、なかなかの人物ではありませんか。娘さんも頼りにしているようですぞ。 その上、王県長の客人ではありませんか。 それほどまでに恥をかかせるのはどうしてなのですか。」 卓王孫はやむなく娘に奴隷100人と銅銭百万銭と、以前に嫁入りした時の衣装・財産を分け与えた。 文君は夫と成都に帰り、田畑と邸を買いこみ、富豪の生活を送った。 その後、以前創作した辞賦が武帝のお気に入りとなり、司馬相如は中央に召し出された。 ある時、相如は西南夷を服従させる利を説き、武帝は彼を中郎将に任命し西南夷へ向わせた。 相如の一行が蜀へ着くと、蜀郡の太守以下官吏一同が郊外まで出迎え、 蜀郡に属する県の長官たちが弓矢を背負って先導した。 蜀の人々は、司馬相如を地元の英雄だと思い、非常に喜んだ。 卓王孫は相如の宿舎へ参上し、上等の牛や酒を献上し歓談した。 卓王孫は、「文君を司馬中郎将どのに貰ってもらうのが遅すぎた。」と嘆息し恥じ入った。 そして卓家の跡取息子と同等に、巨額の財産を娘の文君に与えた。 かくして司馬相如は西南夷を制圧し、漢の国境の柵をはるか南まで広げ、 異民族との交易のために大河に橋を架け道を開いた。 都へ帰還し武帝に報告すると、武帝は非常に喜んだ。 その後、ある者が相如を弾劾した。 その者は、卓文君が父から財産を与えられたことを「賄賂」だと主張したのである。 相如は免職された。しかし一年後には再び召し出され、郎となった。 これ以来、相如は官職や爵位にまるで興味を示さなくなり、 病気と称して家で文君と共に気楽に暮らした。 相如にはどもりと糖尿病の持病があった。 次第に病気が悪化し、その噂は武帝の耳にまで届いた。 武帝は相如が自分の辞賦を焼いてしまうだろうと思い、相如邸に使者を遣った。 しかし、相如は既に亡くなっていた。 文君は泣きはらした目で、その使者に言った。 「夫は昔から自分の著作を手元に置いたことはありませんでした。 著作いたしますと、他所の方が次々と持っていってしまいまして、もう何もありません。 しかし、夫は死ぬ直前に『天子さまの使者が来たら、これを献上しなさい』と申しました。 このほかに著作はありません。」 この辞賦は『封禅文』といい、後に『文選』にも採用された。 愛する夫を亡くした文君のその後は、正史『史記』には書かれていない。  |