第七話:郭解伝4


郭解が茂陵に引っ越す時、見送りの者からの餞別は千万銭を超えた。

郭解が函谷関から関中へ入ると、賢人・豪傑らは争って郭解と交わりを結ぼうとした。


郭解の手下の中には、親分がいなくなって困る者も大勢いた。

腹いせにし県の属官の楊(名は不明)が殺された。

楊は上司の命で郭解を移住の名簿に加えた人物であった。

下手人は郭解の甥であった。郭解の甥は逃げた。

これ以後、郭家と楊家は仇敵となった。

その後、今度は殺された楊の父(楊季主とあるが名・字かどうかよく判らない)が殺された。

楊家は相手が郭解一味では敵わないと考え、直接都に訴え出た。

しかし、都に向かった楊家の者も宮門の下で殺された。

武帝はこれを聞くとすぐさま郭解の逮捕を命じた。


郭解は逃亡し、母と家族を夏陽に隠し、自身は夏陽の南の臨晋の関から逃げた。

郭解は転々とし、さらに北の太原まで逃げた。

郭解は匿ってくれた家で次の行き先を話して立ち去ったので、

役人がそれを追いかけて臨晋までやってきたが、臨晋から先は足跡が途絶えてしまった。

臨晋関の籍少翁という者は郭解の顔を知らなかったので解を臨晋関から出してしまい、

責任を負って自殺してしまったからだ。
(籍少翁が臨晋でどんな役職であったのか、少翁が名であるのか字であるのか、不明)


その後しばらくして、さすがの郭解も国家の追跡を振り切れず逮捕された。

郭解は厳しく追及されたが、彼の関わった殺人はすべて恩赦の前の犯行であり

罪に問うことができなかった。

ちょうどその頃、郭解の故郷のしで身辺調査が進められていた。

調査の役人と儒者が同席し、聞き取りが行われていた。

郭解の食客が親分を誉めちぎったので、儒者は「解は専ら悪事を働き国家の法を破った者。

どこが立派な人物なのだ。」と言った。

これを聞くと食客は儒者を刺殺し舌を切りとり、逃亡した。


この殺人によって郭解は更に追及されたが、郭解は既に拘束されており下手人すら知らなかった。

結局、取調べの役人は郭解に罪がないとして御史大夫公孫弘に報告した。

だが、公孫弘は言った。

「解は庶民でありながら、任侠を行い威勢をふるい、

ちょっと睨んだ程度で因縁をつけて人を殺してきた。

仮に解がこの殺人を知らなくとも、この罪は解自身が行った場合よりも重い。

大逆無道の罪に当てるべきだ。」

武帝はこれを是とし、遂に郭解一族は皆殺しにされた。

この死刑は郭解逮捕の時から、すでに決まっていたのだろう。

おそらく公孫弘は筋書きに沿って演じたに過ぎず、

郭解刑死後は子分どもの復讐を恐れ毎日肝を冷やしたことだろう。



司馬遷は言う。

「吾視郭解、状貌不及中人、言語不足採者。
私は郭解を見たことがある。
容姿は並みの人にも及ばず、発言にもとりあげるべきものは無かった。
然天下無賢與不肖、知與不知、皆慕其聲、言侠者皆引以為名。
しかしながら、天下の賢人愚人、知るも知らぬも皆郭解の名声を慕っている。
游侠を語る者は皆彼の名を引き合いに出す。
諺曰『人貌榮名、豈有既乎!』 於戲、惜哉!」
ことわざにも「名声を己の顔とすることができれば、それは決して衰えることはない。」
とあるではないか。
(原文難解である。史記集解の徐廣の説に従って意訳した。己が死すとも名は残る、という司馬遷のメッセージか?)
ああ、惜しいことよ!

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