第八話:郭解の子孫


郭解は一族皆殺しにされたはずであるが、

子孫を名乗る者が後漢書に立伝されているので紹介する。


きゅう、字を細侯といい、郭解が移住した茂陵の人であった。

郭解の玄孫(孫の孫)にあたる。

父の郭梵は蜀郡太守であった。

きゅうは若い頃より志があり、前漢哀帝・平帝の間に三度遷って漁陽都尉となった。

王莽が国を奪った後、上谷の太守となり、并州牧に遷った。
(漁陽・上谷は隣接しており、匈奴・烏桓と境を接し、侵略が多く統治の難しい場所であったようだ。
また并州は漁陽らが含まれる幽州の隣であり同じく異民族に悩まされている州であった。)


新が滅び更始帝が立つと、長安周辺は連年の戦禍で民衆は落ち着かず、

豪族達は兵を擁して従わなかった。

更始帝は郭きゅうの名を聞くと、召して左馮翊に任命し民を鎮撫させた。

更始帝が破れ、光武帝が即位すると雍州牧として再び異民族と境を接する涼州へ赴任したが、

また呼び戻され尚書令に任命され度々諌争した。


建武四年中山太守に転じ、建武五年さらに漁陽太守に遷った。

きゅうは信賞必罰を徹底し、盗賊の首領を次々と誅しその勢を平らげた。

匈奴に対しても、兵と馬を整備して攻守の計略を徹底した為、匈奴は恐れて近づかず

民衆は安住でき、在職五年間で人口は倍になった。


建武九年、潁川郡で盗賊が多発し、郭きゅうが太守として赴任することとなった。

きゅうは潁川郡に到着すると、群盗の罪を赦すと言い招き寄せた。

群盗は自ら腕を縛り赦しを乞うた。郭きゅうは前言を翻すことなく、彼らをみな帰農させた。

きゅうは勝手に群盗を赦したことを自ら弾劾したが、光武帝が咎めることは無かった。

きゅうの名は遠く江南まで及び、昔赴任した幽州冀州からも続々と盗賊が降服してきた。

(盗賊たちは帰農する場所を失い盗み彷徨い、郭キュウは信を以って帰農する場所を与えたという一面もあるのだろう。)


建武十一年、光武帝に従わない盧芳が北方を占拠しているのに対し、

再度郭きゅうを并州牧とし対抗させた。

その際、光武帝は郭きゅうの労を思い、皇太子や諸王を招いて宴を開き、多くの物を下賜した。

きゅうは良い機会だと思い諫言した。

「天下に賢人は多くいます。南陽の人材だけを用いるのはよろしくありません。」
(南陽は光武帝の故郷。南陽豪族による国家樹立期から、国家を守る時期に入っていると諭したのだろう。)

光武帝は怒らず、この言を善しとした。郭きゅうの尚書令時代の諫言を思い出したのだろうか。


きゅうは赴任した先々で恩徳を施していたので、出発した後いたるところで歓迎された。

ちょうど朝廷では郭きゅうを大司空に推薦する者が多くいたが、

光武帝は盧芳や匈奴の難に対処できるのは郭きゅうしかいないと思い、

朝廷へ召還することはなかった。


きゅうは盧芳が以前から勢力を張り簡単に制圧できないことを知っており、

烽火による警戒を怠らず、懸賞首にして賊の心が乱れるのを待った。

しばらくすると、盧芳の将であった隋いくが寝返り、盧芳は匈奴の地へ落ちのびた。


建武二十二年、郭きゅうは老病であると上書し并州牧の罷免を願った。

光武帝は郭きゅうを太中大夫に任命し、朝廷へ召還した。

光武帝は莫大な財を郭きゅうに与えたが、

自らの死期を知っていたのか、郭きゅうはすべての財産を親族へ分け与えてしまい何も残さなかった。

翌建武二十三年、激動の時を生きた郭きゅうは八十六歳で世を去った。

光武帝は葬式に列し郭きゅうの死を悼み、墓を下賜した。


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