第二話:寵愛 |
劉邦が沛で旗揚げすると、盧綰は客として挙兵に参加した。 しかしこれといった軍功が記されておらず、劉邦の信頼できる相談相手であったようだ。 劉邦の寵愛は並々ならぬものがあり、劉邦が漢王になった時には将軍に任ぜられ、 宮廷ではいつも劉邦の近くに侍っていて臣下の動静を語り合った。 劉邦が韓信を得て陳倉の旧道から攻め出たとき、 盧綰は大尉に任命され常に側にひかえており、劉邦の寝室にも出入りが自由だった。 話が逸れてしまうのだが、 劉邦の家臣に周昌という直言の士がいた。 彼は、司馬遼太郎の「項羽と劉邦」で有名な周苛の従弟にあたる。 周苛は覇王項羽の猛攻を防ぎ、劉邦の劣勢を蔭で挽回させた名将なのだが、 結局戦で項羽に敵う者は無く、城は落ち捕えられてしまう。 項羽はこの奇士を配下にしたく、将軍になるように自ら説得した。 しかし周苛は 「ゴチャゴチャごたくを並べる暇があったら早く漢王に降参しろ!!」 と大喝し、項羽を激しく罵った。 項羽は激怒し、周苛を煮殺してしまった。 周昌も従兄に似て硬骨の士であり、度々劉邦を激しく諌めた。 あるとき周昌は進言があり、劉邦が暇な時間を見計らって寝室へ出向いた。 が、な、な、なんと、 劉邦は寵姫の戚姫を抱き、愛し合っているではないか! いけないものを見てしまった周昌は、一目散に劉邦の寝室から逃げ出した。 これに劉邦が気づいた。 劉邦は戚姫を置き去りにし周昌を追いかけ、周昌を押し倒しうなじに馬乗りになった。 (裸で馬乗りになったのであれば・・・^^;;) 劉邦「ワシをどんな君主だと思う?」 周昌「(く、くるしい・・・)暴君の桀や紂(亡国の暴君)に匹敵する君主です!!」 劉邦「う・・・・・・そうか。ははは!!桀や紂か。相当な暴君だな。」 劉邦は呵呵大笑したものの、内心周昌に誰よりも遠慮した・・・。 周昌でさえ劉邦の寝室でこんな目にあっているのだから、 盧綰はもっと酷い目にあっていたであろう。 しかし『史記』には残念ながらそんなコトは書かれていない。 劉邦が盧綰に下賜した衣服・飲み物・食べ物・賜り物は格別で、 他の家臣は到底期待できないものだった。 沛での挙兵以来つき従ってきた蕭何・曹参ですら、 職務上で特別扱いされるだけで、個人的な寵愛は盧綰には到底及ばなかった。 こうして盧綰は劉邦の寵愛を受け、遂に長安侯に取り立てられたのである。 |
周苛? | 沛の人。周昌の従兄にあたる。秦の時代泗水郡の役人であったが、劉邦が沛で挙兵し泗水郡守を撃ち破るに至って周苛・周昌は劉邦に従った。周苛は賓客の待遇を受け、劉邦に従って函谷関を越え秦を滅ぼした。劉邦が漢王になると、周苛は御史大夫に任命された。後、漢が苦境に立たされたとき周苛は榮陽の守将になり、項羽の猛攻を防いだ。この間に、劉邦は劣勢を立て直し天下統一のキッカケをつくった。だが周苛は善戦むなしく項羽に捕まり、降伏を勧められその上に将軍位まで約束された。しかし周苛は激しく項羽を罵り、項羽を激怒させついに煮殺された。周苛の子の周成は功績が無かったが、父が国の為に殉職したことを讃えられ、高景侯となった。 |
周昌? | 沛の人。劉邦に従う経緯は従兄の周苛と同じ。彼は人柄が強情で直言を憚らなかった。蕭何や曹参までもが彼に遠慮した。劉邦までもが遠慮していたことは、上に述べた通りである。漢の天下統一後、劉邦は正妻呂后との間にもうけた劉盈を廃し、側室戚姫の生んだ劉如意を皇太子に据えようとした。群臣は頑強に反対したが、誰も劉邦の決意を変えることができなかった。そこで御史大夫であった周昌は進み出て反対意見を強硬に主張しようとしたが、ドモリであった上に気が高ぶっていたため、「わ、わ、私は、ぜ、ぜぜ、絶対にいけないことがわかっております。へ、陛下が皇太子を廃そうとなさっても、わ、わ、わ、私は、ぜ、ぜっ、絶対に勅命をお受けしません。」と、うまく主張できなかった。これを聞いていた呂后は跪いて周昌に感謝した。のち、趙尭という小賢しい男の策略に嵌められ、趙王劉如意の相に左遷された。劉邦は呂后が必ず劉如意を害すであろうと予測し、周昌に如意を守るよう遺言した。劉邦逝去後、呂后は戚姫と戚姫の子・劉如意を恨み殺そうとした。劉如意は趙にいて周昌に守られていた為、劉邦の遺言を盾に呂后の出頭命令を無視した。しかし周昌が都に出頭している間に、劉如意は都に連行され毒を飲まされ殺された。周昌は劉如意を守れなかったことを悔やみ、仮病を使って一切参内せず三年経って自宅で死んだ。 一方、劉如意の母親の戚姫は呂后に捕えられた。呂后は戚姫の喉を焼き言語を奪い、聴覚をも奪い、眼球をくり抜き、両手足を切断し、便所に放り込んで「人豚」と名付けた。もちろん戚姫は死んでいるが・・・。無残である。 |