第三話:燕王
覇王項羽が敗死した紀元前202年の冬、

楚の臨江王だった共尉がまだ漢に降らなかった。

そこで劉邦は盧綰・劉賈(劉邦の従父兄)を討伐軍の将軍とし共尉を討たせたが、

共尉はなかなか降らず、半年弱かかってこれを降し七月に都に凱旋した。


またまたハナシが逸れてしまうが、劉邦の性格について考察したいと思う。

『漢書』の楚元王伝第六の列伝に、劉邦の実弟の劉交の話が載っている。

その中に、気になる記述がある。

「劉邦が帝位につくと、交と盧綰は常に帝の側に侍り、その寝室に出入りして、

諸王・諸侯の言動・噂や、宮中の諸事・隠謀を伝達した。

そして帝の従父兄の劉賈がしばしば別軍の将となった」


このくだりを読むと、劉邦の猜疑心の強さが表れているような気がする。

異姓の王を次々と廃し、かわりに劉一族を王位に就けたのもうなずけてしまう。
国家の安定ということもあったんでしょうけど。^^;


共尉が討伐された後、すぐ燕王臧荼が謀反し粛清された。

盧綰はこの討伐戦にも参加し臧荼を降伏させた。

しかし、臧荼の息子臧衍は匈奴の地に逃亡した。

彼が盧綰の運命を変えてしまうのだが、その話はまた後で。

劉邦は盧綰を燕王にしようとしたが、群臣が不満を持つのでは?と思い、

「今までで功労の大きい者を燕王としよう。」と発表した。

臣下たちは劉邦が盧綰を燕王にしたがっていると知っていたのでオベッカを使い、

「太尉・長安侯の盧綰は、常に陛下に従い天下を平定するお供をしました。

それゆえ功績は最も多く、当然燕王になるべきです。」

と口をそろえて言った。

劉邦はこれを喜び、詔勅を下して盧綰を燕王に任命した。


こうして、盧綰は遂に王位に登ったのであった。


劉交? 劉交は、劉邦の実弟である。兄とは違い良くできた人間で、読書を好み多才であった。儒学を大変好み、儒の盛んな魯に遊学し師について勉学に励んだ。この挿話から、劉邦の家が結構裕福だったことが判る。劉邦が壮年まで沛の街をほっつき歩き、農作業を一切手伝わずとも劉家がビクともしなかったのもうなずける。^^;劉交は兄が挙兵すると、これに従い文信侯に封ぜられた。兄に愛され、盧綰と共に寝室の出入りが認められ兄の良き話し相手でもあった。のち、韓信が楚王から引きずり降ろされたあと、楚の地を二分し従父兄の劉賈と弟劉交にこれを与えた。劉賈は荊王となり、劉交は楚王となった。楚王になると、魯で学んだ時の師匠を探し出し楚の中大夫に任命し厚く遇した。文帝も劉交を特別尊重していた。劉交は在位23年で亡くなった。
その後、孫の劉戊
(りゅうぼ)が呉楚七国の乱に参加し国を失い劉戊も自殺した。が、子孫は長く続いた。
劉賈? 劉賈は劉邦の従父兄であるが、劉賈の家が分家なのか、本家なのかはよくわからない。劉邦が陳倉の旧道から打って出た後、劉賈は塞王であった司馬欣を捕え三秦の平定に奔走した。劉邦軍が項羽に負け成皋城から遁走した後、劉賈は命じられて別働隊の隊長となり歩兵2万・騎兵数百を率いて楚の地に潜入した。劉賈は彭越と共に楚の蓄積した兵糧を焼き払い、項羽軍に兵糧補給させないようにした。項羽はこれを怒り大軍を率いて劉賈・彭越を討伐したが、二人は堅く守り挑発に応じなかった。その後黥布と共に楚の地を攻略し、項羽が留守を任せた大司馬周殷を内応させることに成功し垓下で劉邦と合流し項羽を撃った。楚の臨江王共尉を討伐する際、劉賈と盧綰がその隊長に選ばれ、苦労して共尉を討った。楚王韓信が王位から降ろされると楚の地は二分され、劉賈が荊王、劉交が楚王となった。荊王在位六年目に淮南王黥布が反乱を起こし、まず荊王劉賈を攻めた。劉賈は黥布に大敗し、殺された。

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